・・・今もまたトンネルを通り抜けた汽車は苦しそうに煙を吹きかけ吹きかけ、雨交りの風に戦ぎ渡った青芒の山峡を走っている。…… ――――――――――――――――――――――――― 翌日の日曜日の日暮れである。保吉は下宿の古・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・雲の光り、竹の戦ぎ、群雀の声、行人の顔、――あらゆる日常の瑣事の中に無上の甘露味を感じなければならぬ。 人生を幸福にする為には?――しかし瑣事を愛するものは瑣事の為に苦しまなければならぬ。庭前の古池に飛びこんだ蛙は百年の愁を破ったであろ・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・湿った庭の土からは、かすかに白い霧が立って、それがわずかな気紛れな風の戦ぎにあおられて小さな渦を巻いたりしていた。子供等は皆学校へ行っているし、他の家族もどこで何をしているのか少しの音もしなかった。実に静かな穏やかな朝であった。 私は無・・・ 寺田寅彦 「浅草紙」
・・・東京市何区何町の真中に尾花が戦ぎ百舌が鳴き、狐や狸が散歩する事になったのは愉快である。これで札幌の町の十何条二十何丁の長閑さを羨まなくてもすむことになったわけである。 寺田寅彦 「札幌まで」
・・・わしの戦ぎは総て世の中の熟したものの周囲に夢のように動いておるのじゃ。其方もある夏の夕まぐれ、黄金色に輝く空気の中に、木の葉の一片が閃き落ちるのを見た時に、わしの戦ぎを感じた事があるであろう。凡そ感情の暖かい潮流が其方の心に漲って、其方が大・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・ お天気の好い日には、其の沢山の葉が、みな日光にキラキラと輝き、下萌えの草は風に戦ぎ、何処か見えない枝の蔭で囀る小鳥の声が、チイチクチクチクと、楽しそうに合唱します。真個に輝く太陽や、樹や小鳥は、美しゅうございます。 政子さんも、そ・・・ 宮本百合子 「いとこ同志」
・・・草の戦ぎ! ひたと我下にある大地ああ、よい 初夏よ私は 母の懐 野天に帰り心安らかに生命の滋液を吸う胡坐を組み只管イスラエルの民のように父なる天に溶け入るのだ。 文明人可笑しな 文明・・・ 宮本百合子 「五月の空」
・・・近頃の自然こそ、人間が眠っている暗い夜の間にも巻葉の解かれるサッサッと云う微な戦ぎで天地を充たすようだ。 雨はやんだらしいが、雲は晴れないと見え、硝子窓の外は真暗闇だ。楓の軟かい葉から葉に伝って落ちる点滴の音がやや憂鬱に響いて来る。夜の・・・ 宮本百合子 「新緑」
・・・朝、白い蚊帳の中に横たわってその戦ぎをながめる、ほとんど音楽が流れているようだ。〔一九二六年八月〕 宮本百合子 「竹」
・・・その下にねっとり白く咲く梨の花の調子は、不安なポプラの若葉の戦ぎと伴って、一つの音楽だ。熱情的な五月の音楽だ――何の花だろう。何の花だろう。朝起きるとその木を見る。女中に訊いても樹の名を知らぬ或る朝、ところが、一番日当りよい下枝の蕾が開いた・・・ 宮本百合子 「夏遠き山」
出典:青空文庫