・・・「折角御嬢さんの在りかをつきとめながら、とり戻すことが出来ないのは残念だな。一そ警察へ訴えようか? いや、いや、支那の警察が手ぬるいことは、香港でもう懲り懲りしている。万一今度も逃げられたら、又探すのが一苦労だ。といってあの魔法使には、・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・ 陳は受話器を元の位置に戻すと、なぜか顔を曇らせながら、肥った指に燐寸を摺って、啣えていた葉巻を吸い始めた。 ……煙草の煙、草花のにおい、ナイフやフォオクの皿に触れる音、部屋の隅から湧き上る調子外れのカルメンの音楽、――陳はそう云う・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・ 且つ仕舞船を漕ぎ戻すに当っては名代の信者、法華経第十六寿量品の偈、自我得仏来というはじめから、速成就仏身とあるまでを幾度となく繰返す。連夜の川施餓鬼は、善か悪か因縁があろうと、この辺では噂をするが、十年は一昔、二昔も前から七兵衛を知っ・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・石田を細君の手へ戻す時間が近づく。しごきを取って石田の首に巻きつける。はじめは閨房のたわむれの一つであった。だから、石田はうっとりとして、もっと緊めてくれ、いい気持だから。そんな遊びを続けているうちに、ぐっと力がはいる。石田はぐったりする。・・・ 織田作之助 「世相」
・・・だから、金はいったん戻す気になった。が無理に握らされて、あとで見ると百円あった。有難かった。そわそわして落ちつかなかった。 夕方、電話が掛って来た。弟の声だったから、ぎょっとした。危篤だと聞いて、早速駆けつける旨、電話室から病室へ言いに・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・以前の位置へ戻すことさえできない。私は幾度もそれを繰り返した。とうとうおしまいには日頃から大好きだったアングルの橙色の重い本までなおいっそうの堪えがたさのために置いてしまった。――なんという呪われたことだ。手の筋肉に疲労が残っている。私は憂・・・ 梶井基次郎 「檸檬」
・・・ だが、その時、銃を取った大西上等兵と浜田一等兵は、安全装置を戻すと、直ちに、×××××××××をねらって引鉄を引いた。 黒島伝治 「前哨」
・・・親爺は、もう、彼の力では、大勢を再びもとへ戻すのは不可能だと感じたのに違いない。彼は、なお、土地を手離すまいと努力した。金を又借り足して利子を払った。しかし、何年か前、彼に、土地を売りつけに来た熊さんは、矢のように借金の取立てに押しかけて来・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・ 見ると東坡巾先生は瓢も玉盃も腰にして了って、懐中の紙入から弾機の無い西洋ナイフのような総真鍮製の物を取出して、刃を引出して真直にして少し戻すと手丈夫な真鍮の刀子になった。それを手にして堤下を少しうろついていたが、何か掘っていると思うと・・・ 幸田露伴 「野道」
・・・と女がまた話を戻す。「波さえ音もなき朧月夜に、ふと影がさしたと思えばいつの間にか動き出す。長く連なる廻廊を飛ぶにもあらず、踏むにもあらず、ただ影のままにて動く」「顔は」と髯なしが尋ねる時、再び東隣りの合奏が聞え出す。一曲は疾くにやん・・・ 夏目漱石 「一夜」
出典:青空文庫