・・・女ながらに気性の勝れて強いお前たちの母上は、私と二人だけいる場合でも泣顔などは見せた事がないといってもいい位だったのに、その時の涙は拭くあとからあとから流れ落ちた。その熱い涙はお前たちだけの尊い所有物だ。それは今は乾いてしまった。大空をわた・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・ 扱帯の下を氷で冷すばかりの容体を、新造が枕頭に取詰めて、このくらいなことで半日でも客を断るということがありますか、死んだ浮舟なんざ、手拭で汗を拭く度に肉が殺げて目に見えて手足が細くなった、それさえ我儘をさしちゃあおきませなんだ、貴女は・・・ 泉鏡花 「葛飾砂子」
・・・ほんとに冷々するんですよ。拭くたびにだんだんお顔がねえ、小さくなって、頸ン処が細くなってしまうんですもの、ひどいねえ、私ゃお医者様が、口惜くッてなりません。 だって、はじめッから入院さしたッて、どうしたッて、いけないッて見離しているんで・・・ 泉鏡花 「誓之巻」
・・・ と、懐中に突込んで来た、手巾で手を拭くのを見て、「あれ、貴方……お手拭をと思いましたけれど、唯今お湯へ入りました、私のだものですから。――それに濡れてはおりますし……」「それは……そいつは是非拝借しましょう。貸して下さい。」・・・ 泉鏡花 「鷭狩」
・・・の伊助は三三九度の盞をまるで汚い物を持つ手つきで、親指と人差指の間にちょっぴり挾んで持ち、なお親戚の者が差出した盞も盃洗の水で丁寧に洗った後でなければ受け取ろうとせず、あとの手は晒手拭で音のするくらい拭くというありさまに、かえすがえす苦りき・・・ 織田作之助 「螢」
・・・自分が洗ってくれと言ったので石鹸で洗っておきながら濡れた手拭で拭くだけのことしかしない。これが新式なのでもあるまいと思ったが、口が妙に重くて言わないでいた。しかし石鹸の残っている気持悪さを思うと堪らない気になった。訊ねて見ると釜を壊したのだ・・・ 梶井基次郎 「泥濘」
・・・ 母は、一歳の次女におっぱいを含ませながら、そうして、お父さんと長女と長男のお給仕をするやら、子供たちのこぼしたものを拭くやら、拾うやら、鼻をかんでやるやら、八面六臂のすさまじい働きをして、「お父さんは、お鼻に一ばん汗をおかきになる・・・ 太宰治 「桜桃」
・・・ ハンケチで顔を拭く。「泣いてるんじゃねえだろうな。」「いいえ、雨で眼鏡の玉が曇って、……」「いや、その声は泣いてる声だ。とんだ色男さ。」 闇商売の手伝いをして、道徳的も無いものだが、その文士の指摘したように、田島という・・・ 太宰治 「グッド・バイ」
・・・ホヤの中にほうっと呼気を吹き込んでおいて棒きれの先に丸めた新聞紙できゅうきゅうと音をさせて拭くのであった。 その頃では神棚の燈明を点すのにマッチは汚れがあるというのでわざわざ燧で火を切り出し、先ずホクチに点火しておいてさらに附け木を燃や・・・ 寺田寅彦 「追憶の冬夜」
・・・「なるほど、拭くと、着物がどす黒くなる」「僕のハンケチも、こんなだ」「ひどいものだな」と圭さんは雨のなかに坊主頭を曝しながら、空模様を見廻す。「よなだ。よなが雨に溶けて降ってくるんだ。そら、その薄の上を見たまえ」と碌さんが指・・・ 夏目漱石 「二百十日」
出典:青空文庫