・・・が、声だと思ったのは、時計の振子が暗い中に、秒を刻んでいる音らしかった。「御止し。御止し。御止し。」 しかし梯子を上りかけると、声はもう一度お蓮を捉えた。彼女はそこへ立ち止りながら、茶の間の暗闇を透かして見た。「誰だい?」「・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・その生活の規則的なる事、エマヌエル・カントの再来か時計の振子かと思う程なりき。当時僕等のクラスには、久米正雄の如き或は菊池寛の如き、天縦の材少なからず、是等の豪傑は恒藤と違い、酒を飲んだりストオムをやったり、天馬の空を行くが如き、或は乗合自・・・ 芥川竜之介 「恒藤恭氏」
・・・――と云うのは、天井の両側に行儀よく並んでいる吊皮が、電車の動揺するのにつれて、皆振子のように揺れていますが、新蔵の前の吊皮だけは、始終じっと一つ所に、動かないでいるのです。それも始は可笑しいなくらいな心もちで、深くは気にも止めませんでした・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ 時どき柱時計の振子の音が戸の隙間から洩れてきこえて来た。遠くの樹に風が黒く渡る。と、やがて眼近い夾竹桃は深い夜のなかで揺れはじめるのであった。喬はただ凝視っている。――暗のなかに仄白く浮かんだ家の額は、そうした彼の視野のなかで、消えて・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・ブリキ細工の雀が時計の振子のように左右に動いているのを、小さい鉛の弾で撃つのだ。尻尾に当っても、胴に当っても落ちない。頭の口嘴に近いところを撃たなければ絶対に落ちない。しかし僕は、空気銃の癖を呑み込んでからは、たいてい最初の一発で、これをし・・・ 太宰治 「雀」
・・・いかなる振り子の運動でも若干のエネルギーの消耗がある限りその運動は必ず減衰して行くはずである。それが時を逆転した映画の世界では反対に、静止した振り子がだんだん揺れ出し次第に増幅するのである。もっと一般に言えば宇宙のエントロピーが次第に減少し・・・ 寺田寅彦 「映画の世界像」
・・・はメートル制の採用と振り子の使用との結合から生まれた偶然の産物であるが、このだいたいの大いさの次序を制定したものはやはり人体の週期であるという事はほとんどたしからしく自分には思われる。 さて、われわれは時の長さをこの秒で測ると同時に、ま・・・ 寺田寅彦 「空想日録」
・・・枝に取り付いている上端は眼に見えないほど小さい糸になっているので、風の吹く度に簑はさまざまに複雑な振子運動をし、また垂直な軸のまわりに廻転もしていた。今にも落ちそうに見えるが実はなかなかしっかりしているのであった。簑虫自身は眠っているのか、・・・ 寺田寅彦 「小さな出来事」
・・・ 寺院の懸灯の動揺するを見て驚き怪しんだ子供がイタリアピサに一人あったので振り子の方則が世に出た。りんごの落ちるを怪しむ人があったので万有引力の方則は宇宙の万物を一つの糸につないだというのは人のよく言う話である。基礎的の原理原則を探り当・・・ 寺田寅彦 「知と疑い」
・・・ もしかりに宇宙間にただ一つ、摩擦のない振り子があって、これを不老不死の仙人が見ている、そして根気よく振動を数えているとすればどうであろう。この仙人にとっては「時」の観念に相当するものはただ一つの輪のようなものであって、振動を数える数は・・・ 寺田寅彦 「時の観念とエントロピーならびにプロバビリティ」
出典:青空文庫