・・・と言いながら、こんどは間違って便所の方へ行ってしまうという放心振りがめずらしくなく、飄々とした脱俗のその風格から、どうしてあの「寄せの花田」の鋭い攻めが出るのかと思われるくらいである。相手の坂田もそれに輪をかけた脱俗振りで、対局中むつかしい・・・ 織田作之助 「勝負師」
・・・ 三十前後の、ヒョロヒョロと痩せて背の高い、放心したような表情の男だったが、眉には神経質らしい翳があり、こういう男はえてして皮肉なのだろうか。「ほな、何弁を使うたらいいねン……?」「詭弁でも使うさ」 男はひとりごとのように、・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・前の大きな鏡に映る蒼黒い、頬のこけた、眼の落凹んだ自分の顔を、他人のものかのように放心した気持で見遣りながら、彼は延びた頭髪を左の手に撫であげ/\、右の手に盃を動かしていた。そして何を考えることも、何を怖れるというようなことも、出来ない程疲・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・それで昨夜チチシスのシがアの字の間違いであったことがすぐ気づかれてホッと安心の太息をついたが、同時に何かしら憑き物にでも逃げだされたような放心の気持と、禅に凝ってるのではないかと言った弟の言葉が思いだされて、顔の赧くなるのを感じた。……・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・与えるに、ものなき時は、安(とだけ書いて、ふと他のこと考えて、六十秒もかからなかった筈なれども、放心の夢さめてはっと原稿用紙に立ちかえり書きつづけようとしてはたと停とん、安というこの一字、いったい何を書こうとしていたのか、三つになったばかり・・・ 太宰治 「創生記」
・・・ 私はそのときは放心状態であった。もし、そのきこりが、お前がつき落したのだろうと言ったら、私はそうだと答えたにちがいない。しかし、それは、いまにして判ったのであるが、そのきこりが、私を疑えない筈だった。それは断崖の百丈の距離が、もたらし・・・ 太宰治 「断崖の錯覚」
・・・放心について 森羅万象の美に切りまくられ踏みつけられ、舌を焼いたり、胸を焦がしたり、男ひとり、よろめきつつも、或る夜ふと、かすかにひかる一条の路を見つけた! と思い込んで、はね起きる。走る。ひた走りに走る。一瞬間のできごとで・・・ 太宰治 「もの思う葦」
・・・数が多すぎるばかりでなく、これらの善男善女は一様に或る熱心と放心とのまじり合った表情の中に没せられていて、一人一人の人間らしい目鼻だちの活躍する以前の状態におかれているのであると見える。花じるしばかりで顔や眼のない人間の群は眺めていて悲しみ・・・ 宮本百合子 「上林からの手紙」
・・・ マークの死後、放心の状態におかれたスーザンは、ある夜眠られぬままに、群像をこしらえかけたままにしておいた納屋へ、ランプをもって入っていく。マークはもうこの世にいない。その恐怖は何と寒く烈しいだろう。その恐怖からのがれる道は、スーにとっ・・・ 宮本百合子 「『この心の誇り』」
・・・或時は同性の心易さからの無関心――無邪気な放心であり、或時には微妙な、宛然流れ混る雲のように微妙な、細心な uneasy から、無関心に遁げる場合もございましょう。其に、如何うしても、生活範囲が或一区画に限られ勝でございますから、刺戟の少い・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
出典:青空文庫