・・・どんな場合でも、涙は私の前では禁物だった。敏感な神経質な子だから、彼はどうかすると泣きたがる。それが、泣くのが自然であるかもしれないが、私は非常に好かないのだ。凶暴な人間が血を見ていっそう惨虐性を発揮するように、涙を見ると、私の凶暴性が爆発・・・ 葛西善蔵 「父の出郷」
・・・難を云えば造りが薄手に出来ていて湿気などに敏感なことです。一つの窓は樹木とそして崖とに近く、一つの窓は奥狸穴などの低地をへだてて飯倉の電車道に臨む展望です。その展望のなかには旧徳川邸の椎の老樹があります。その何年を経たとも知れない樹は見わた・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・吉田はそれですっかりその婆さんに牛耳られてしまったのであるが、その女の自分の咳に敏感であったことや、そんな薬のことなどを思い合わせてみると、吉田はその女は付添婦という商売がらではあるが、きっとその女の近い肉親にその病気のものを持っていたのに・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・ 街を歩くと堯は自分が敏感な水準器になってしまったのを感じた。彼はだんだん呼吸が切迫して来る自分に気がつく。そして振り返って見るとその道は彼が知らなかったほどの傾斜をしているのだった。彼は立ち停まると激しく肩で息をした。ある切ない塊が胸・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・ それまでおとなしく立っていた、物事に敏感な顔つきをしている兵卒が、突然、何か叫びながら、帽子をぬぎ棄てて前の方へ馳せだした。その男もたしか将校と云いあっていた一人だった。 イワンは、恐ろしく、肌が慄えるのを感じた。そして、馬の方へ・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・長女のマサ子も、長男の義太郎も、何か両親のそんな気持のこだわりを敏感に察するものらしく、ひどくおとなしく代用食の蒸パンをズルチンの紅茶にひたしてたべています。「昼の酒は、酔うねえ。」「あら、ほんとう、からだじゅう、まっかですわ。」・・・ 太宰治 「おさん」
・・・大酒飲みに違いない、と私は同類の敏感で、ひとめ見て断じた。顔の皮膚が蒼く荒んで、鼻が赤い。 私は無言で首肯いてベンチから立ち上り、郵便局備附けの硯箱のほうへ行く。貯金通帳と、払戻し用紙それから、ハンコと、三つを示され、そうして、「書いて・・・ 太宰治 「親という二字」
・・・私は、少しポンチを画く才能をもち、文学に対する敏感さをも、持っています。上品な育ちです。けれども、少しヘンテコです。クリスチャンでもあり、スティルネリアンでもあるというあわれな男です。どうか御返事を下さい。太宰イズムが、恐ろしい勢で私たちの・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・佐伯も、私の気持を敏感に察知したらしく、「ディリッタンティなんだ。」と低い声で言って狡猾そうに片眼をつぶってみせた。「ブルジョアさ。」 私たちは躊躇せず下宿の門をくぐり、玄関から、どかどか二階へ駈けあがった。 佐伯が部屋の障子を・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・謙遜で、引きしまっていて、そして敏感である。ただ話が佳境に入って来ると多少の身振りを交じえる。両手を組合したり、要点を強めるために片腕をつき出したり、また指の端を唇に触れたりする。しかし身体は決して動かさない。折々彼の眼が妙な表情をして瞬く・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
出典:青空文庫