隅田川の両岸は、千住から永代の橋畔に至るまで、今はいずこも散策の興を催すには適しなくなった。やむことをえず、わたくしはこれに代るところを荒川放水路の堤に求めて、折々杖を曳くのである。 荒川放水路は明治四十三年の八月、都下に未曾有の・・・ 永井荷風 「放水路」
・・・寺田氏は、豊富な自分の才能のあの庭、この花園と散策する姿において、魅力を感じる人々に限りない愛着を抱かせているのである。 チンダルのアルプス紀行は、科学と文学との関係で、寺田氏とは異った典型であると思う。チンダルは科学者の心持で終始一貫・・・ 宮本百合子 「作家のみた科学者の文学的活動」
・・・従って朝夕、美くしく着飾った女達が、都会に居るよりもっと気取って、もっと富有らしい歩調で散策する距離は、僅か一哩半位の、村道に限られて居るような形でございます。其の古い楓が緑を投げる街路樹の下を、私共は透き通る軽羅に包まれて、小鳥のように囀・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
○パオリのこと ○父と娘との散策 ○武藤のこと ○貴婦人御あいての若い女 ○夢 ○隣の職工の会話 ○夜の大雨の心持。 ○小野、山岡、島野、(態度 ○十月一日 ○日々草 ×柳やの女中の・・・ 宮本百合子 「一九二五年より一九二七年一月まで」
・・・燈火が灯ってから彼処を散歩すると、どの店も派手で活気があり、散策者と店員等を引くるめてあの辺に漂っている一種独特の亢奮した雰囲気に包まれて見える。青や紫のケースの中で凝っとしている宝石類まで、夜というと秘密な生命を吹き込まれるようだ。昼間は・・・ 宮本百合子 「粗末な花束」
・・・その癖、今、都会人が散策する山径が、太古は箒川の川底に沈んでいただろう水成岩であること、その知識によって自然力の微妙さ永遠さを感じさせる手段は一つも講じてない。 近頃熾に東京日日新聞で、日本新八景の投票を募っているが、あれなど、どういう・・・ 宮本百合子 「夏遠き山」
・・・午前五時、私共は徹夜をした暁の散策の道すがら、草にかこまれた池に、白蓮を見た。靄は霽れきれぬ。花は濡れている。すがすがしさ面を打つばかりであった。 模糊とした私の蓮花図のむこうに、雨戸は今日も白々としまった一つの家がある。〔一九二七・・・ 宮本百合子 「蓮花図」
・・・女の赤い帽子、総ての色調を締める黒の男性散策者。 人は心を何ものかにうばわれたように歩く。……歩く。葉巻の煙、エルムの若葉の香、多くの窓々が五月の夕暮に向って開かれている。 やがて河から靄が上る。街燈が鉄の支柱の頂で燐を閃めかせ始め・・・ 宮本百合子 「わが五月」
・・・に重きを置く、公爵家の若君は母堂を自動車に載せて上野に散策し、山奥の炭焼きは父の屍を葬らんがために盗みを働いた。いずれが孝子であるか、今の社会にはわからぬ。親の酒代のために節操を棄て霊を離るる女が孝子であるならば吾人はむしろ「孝」を呪う。・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫