・・・未だ一円残っていますがこれで散髪屋に行き、――後五十銭残りますが、これもいっそ費って、宵越のぜにア持たねエ、クリスマスを迎えようかと愚考しています。ぼくはここ迄昨夜二時帰宅後、五時まで書きました。今、同じ部屋に居る会社の給仕君と床屋に行って・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・これは先刻、家を出る時、散髪せよと家の者に言われて、手渡されたものなのである。けれども私は、悪質の小説の原稿を投函して、たちまち友人知己の嘲笑が、はっきり耳に聞え、いたたまらなくなってその散髪の義務をも怠ってしまったのである。「待て、待・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・ああ、すこし髪が乱れた。散髪したいな。」 クルミの苗。「僕は、孤独なんだ。大器晩成の自信があるんだ。早く毛虫に這いのぼられる程の身分になりたい。どれ、きょうも高邁の瞑想にふけるか。僕がどんなに高貴な生まれであるか、誰も知らな・・・ 太宰治 「失敗園」
・・・髪を思い切って短く刈ったら、少しは頭も涼しくなり、はっきりして来るかも知れぬと思い、散髪屋に駈けつけた。行きあたりばったり、どこの散髪屋でも、空いているようなところだったら少しは汚い店でもかまわないと、二、三軒覗いて歩いたが、どこも満員の様・・・ 太宰治 「美少女」
・・・そうして、この重大閣議を終ってから床屋で散髪している○相のどこかいつもより明るい横顔と、自宅へ帰って落着いて茶をのんでいる特別にこやかな△相の顔とが並んで頼もし気に写し出されている。ここにも緊張の後に来る弛緩の長閑さがあるようである。「試験・・・ 寺田寅彦 「初冬の日記から」
・・・……午後船の散髪屋へ行く。「ドイツ語がおじょうずですね」などと言われて、おしまいにはまたドロップの瓶入りを買わされた。四月三十日 朝からもうクリート島が右舷に見えていた。島というにはあまり大きいこの陸地の連山の峰には雪らしいものが見・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・ 大河内氏の著書は、鶏小舎を改造せる作業場の中で、ズボンをつけ、作業帽をかぶりナット製作をしている村の娘たち、あるいは村の散髪屋を改造せる作業場で、シボレー自動車用ピストンリングの加工をしている縞のはんてんに腰巻姿の少女から中年の女の姿・・・ 宮本百合子 「新しい婦人の職場と任務」
・・・また、日常生活のこまごましたこと、たとえばこの書簡集にはもちろんロシア小説の到るところに現れて、分るようで分らなかった午餐を、自身食べたり食べなかったりして暮していると、散髪につき、風呂につき、チェホフがしばしば妻に訴えているロシア式不便を・・・ 宮本百合子 「シナーニ書店のベンチ」
出典:青空文庫