一「このくらいな事が……何の……小児のうち歌留多を取りに行ったと思えば――」 越前の府、武生の、侘しい旅宿の、雪に埋れた軒を離れて、二町ばかりも進んだ時、吹雪に行悩みながら、私は――そう思いました。・・・ 泉鏡花 「雪霊記事」
・・・ と言って、旅宿を出ました。 実はなくなりました父が、その危篤の時、東京から帰りますのに、とこの町から発信した……偶とそれを口実に――時間は遅くはありませんが、目口もあかない、この吹雪に、何と言って外へ出ようと、放火か強盗、人殺に疑・・・ 泉鏡花 「雪霊続記」
・・・そして、旅宿に二人附添った、玉野、玉江という女弟子も連れないで、一人で密と、……日盛もこうした身には苦にならず、町中を見つつ漫に来た。 惟うに、太平の世の国の守が、隠れて民間に微行するのは、政を聞く時より、どんなにか得意であろう。落人の・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・ なつかしい浮世の状を、山の崖から掘り出して、旅宿に嵌めたように見えた。 座敷は熊の皮である。境は、ふと奥山へ棄てられたように、里心が着いた。 一昨日松本で城を見て、天守に上って、その五層めの朝霜の高層に立って、ぞっとしたような・・・ 泉鏡花 「眉かくしの霊」
・・・ 奥深い旅宿の一室を借りて三人は次ぎの発車まで休息することにした。おはまは二人の前にひれふしてひたすらに詫びる。「わたしはこんなことをするつもりではなかったのであります、思わず識らずこんな不束なまねをして、まことに申しわけがありませ・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・この『罪と罰』を読んだのは明治二十二年の夏、富士の裾野の或る旅宿に逗留していた時、行李に携えたこの一冊を再三再四反覆して初めて露西亜小説の偉大なるを驚嘆した。 私は詞藻の才が乏しかったから、初めから文人になれようともまたなろうとも思わな・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・しかしこの船宿は、かの待合同様な遊船宿のそれではない、清国の津々浦々から上って来る和船帆前船の品川前から大川口へ碇泊して船頭船子をお客にしている船乗りの旅宿で、座敷の真中に赤毛布を敷いて、欅の岩畳な角火鉢を間に、金之助と相向って坐っているの・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・気がつかなかったので、恰も地の底から湧出たかのように思われ、自分は驚いて能く見ると年輩は三十ばかり、面長の鼻の高い男、背はすらりとしたやさがた、衣装といい品といい、一見して別荘に来て居る人か、それとも旅宿を取って滞留して居る紳士と知れた。・・・ 国木田独歩 「運命論者」
・・・「常旅宿となると、やっぱり居ごこちがいいからサ」と客は答えて、上着を引き寄せ、片手を通しながら「君、大将に会ったら例の一件をなんとか決めてもらわないと僕が非常に困ると言ってくれたまえ。大将はどうかして物にしてやろうというので手間取ってい・・・ 国木田独歩 「疲労」
・・・大津は無名の文学者で、秋山は無名の画家で不思議にも同種類の青年がこの田舎の旅宿で落ち合ったのであった。『もう寝ようかねエ。随分悪口も言いつくしたようだ。』 美術論から文学論から宗教論まで二人はかなり勝手にしゃべって、現今の文学者や画・・・ 国木田独歩 「忘れえぬ人々」
出典:青空文庫