・・・女は歩きつかれたわたくしを追越して、早足に歩いて行く。 わたくしは枯蘆の中の水たまりに宵の明星がけいけいとして浮いているのに、覚えず立止って、出来もせぬ俳句を考えたりする中、先へ行く女の姿は早くも夕闇の中にかくれてしまったが、やがて稲荷・・・ 永井荷風 「元八まん」
・・・その次の日僕がまた海からやって来てほくほくしながらもう大分の早足で気象台を通りかかったらやっぱり博士と助手が二人出ていた。『こいつはもう本とうの暴風ですね、』又あの子供の助手が尤らしい顔つきで腕を拱いてそう云っているだろう。博士はやっぱ・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
・・・ 私は、私より二寸位背の高い彼の人が、私の貸した本を腕一杯に抱えて、はじけそうな、銀杏返しを見せて振り向きもしないで、町風に内輪ながら早足に歩いて行く後姿なんかを思いながらフイと番地を聞いて置かなかった、自分の「うかつ」さをもう取り返し・・・ 宮本百合子 「秋風」
・・・かすかだった人声は次第にたかまり、やがて早足に歩く跫音がおこり、やがてかたまって駈けまわるとどろきになって来た。君たちは、話すことができる! 君たちは話すことができる! そういう歓喜の叫びが穴ぐらの底までつたわって来た。樽は、幾年ぶりかで穴・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第七巻)」
・・・ 一月ほど日が立つ間には、川で雑魚をすくって居る娘も見たし野原の木の下で小さくて美くしい本によみふけって居るのも見たけれ共、娘が一人で居れば居るほどその傍を通る時は知らず知らずの間に早足にいそいで居るのだった。 雨のしとしとと降って・・・ 宮本百合子 「グースベリーの熟れる頃」
・・・誰でもひどく早足だ。四辻を横切りながら、自分の乗ろうとする電車の方ばかりに目をつけている。買いものの紙包みを持ち、小さい子供の手を引いた婦人の口元や眼には殆ど必死らしい熱心さがある。気の利いた外国風の束髪で胸高に帯をしめ、彼女のカウンタアの・・・ 宮本百合子 「粗末な花束」
・・・と銭を渡す時に云った母親の声を思い出してとまりかけたおもチャ屋の前を早足にすぎた。それと一緒に「何を買ったら無駄づかいじゃあないのかしら」と云う事が大学ノ入学試験よりもむずかしかろうと思われるまでに考えられて来た。「本にしようかお菓子に・・・ 宮本百合子 「つぼみ」
・・・と嬉しさのこもった声で云って前よりも一層早足で歩き出しました。やがて向うに六角の家が見えました。あれこそ若い旅の人の家とローズの住居なんですの。詩「見えた見えた」と呼んだ人はもうたまらないと云ったように走り出しました。六角の家の南が・・・ 宮本百合子 「無題(一)」
・・・そんな男を見るたんびに私は下等なきたない事ばっかりを思い出して一々知らず知らずに眉をひそめて行きすぎたあと一間ばかりは早足に歩いて居ました。「こんな所にたまにくると嗜味が低くなった様なうすっくらい様なところにひっぱりこまれる様な気持がし・・・ 宮本百合子 「芽生」
・・・これらの女はみな男よりも小股で早足に歩む、その凋れたまっすぐな体躯を薄い小さなショールで飾ってその平たい胸の上でこれをピンで留めている。みんなその頭を固く白い布で巻いて髪を引き緊めて、その上に帽子を置いている。 がたがた馬車が、跳ね返る・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
出典:青空文庫