・・・ 曖昧に苦笑してると、男はまるで羽搏くような恰好に、しきりに両手をうしろへ泳がせながら、「失礼でっけど、あんた昨夜おそうにお着きにならはった方と違いまっか」 と、訊いた。「はあ、そうです」 何故か、私は赧くなった。「・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・ 二 ………… 眼を醒まして見ると、彼は昨夜のまゝのお膳の前に、肌襦袢一枚で肱枕して寝ていたのであった。身体中そちこち蚊に喰われている。膳の上にも盃の中にも蚊が落ちている。嘔吐を催させるような酒の臭い――彼はまだ・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ 彼が部屋で感覚する夜は、昨夜も一昨夜もおそらくは明晩もない、病院の廊下のように長く続いた夜だった。そこでは古い生活は死のような空気のなかで停止していた。思想は書棚を埋める壁土にしか過ぎなかった。壁にかかった星座早見表は午前三時が十月二・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・『実はわたしも驚いてしまったのだ、昨夜何屋の若者が来て、これこれの客人がすぐ来てくれろというから行って見ると、その人はあっちで吉さんとごく懇意にしていた方で、吉さんが病気を親切に看病してくださったそうな。それで吉さんの死ぬる時吉さんから・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・彼は、受取ったすぐ、その晩――つまり昨夜、旧ツアー大佐の娘に、毎月内地へ仕送る額と殆ど同じだけやってしまったことを後悔していた。今日戦争に出ると分っていりゃ、やるのではなかった。あれだけあれば、妻と老母と、二人の子供が、一ヵ月ゆうに暮して行・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・これを聞いていた源三はしくしくしくしくと泣き出したが、程立って力無げに悄然と岩の間から出て、流の下の方をじっと視ていたが、堰きあえぬ涙を払った手の甲を偶然見ると、ここには昨夜の煙管の痕が隠々と青く現れていた。それが眼に入るか入らぬに屹と頭を・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・何か訳があるのであろう。昨夜小母さんがにわかに黙ってしまったのは、眠いからばかりではなかったらしい。どういうことなのであろうかとしきりに考えてみる。 後から鈴の音が来る。自分はわが考えの中で鳴るのかと思う。前から藁を背負った男が来る。後・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・ ご亭主の話に依ると、夫は昨夜あれから何処か知合いの家へ行って泊ったらしく、それから、けさ早く、あの綺麗な奥さんの営んでいる京橋のバーを襲って、朝からウイスキーを飲み、そうして、そのお店に働いている五人の女の子に、クリスマス・プレゼント・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
御手紙を難有う。『立像』の新短歌について何か思ったことを書けとの御沙汰でしたから手近にあった第三号をあけてはじめから歌だけ拾って読んで行きました。読んでいるうちにふと昨夜見た夢を想い出したのです。 見知らぬ広い屋敷の庭・・・ 寺田寅彦 「御返事(石原純君へ)」
・・・お絹の年をきいて、彼は昨夜驚いたのであった。道太の妻よりも二つも上であった。しかし踊りやお茶の修養があるのと、気質が伝統的に磨かれてきているのと、様子がいいのとで、どことなし落ち著いていた。辰之助の言うとおり、現在別に世帯をもっているおひろ・・・ 徳田秋声 「挿話」
出典:青空文庫