・・・この涙、ああらこの身の心はまださほど弱うはなるまいに……涙ばかりが弱うて……昨夜見た怖い夢は……ああ思い入ればいとどなお胸は……胸は湧き起つわ。矢口とや、矢口はいずくぞ。翼さえあらばかほどには……」 思い入ってはこらえかねてそぞろに涙を・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・ 二度目に灸が五号の部屋を覗いたとき、女の子はもう赤い昨夜の着物を着て母親に御飯を食べさせてもらっていた。女の子が母親の差し出す箸の先へ口を寄せていくと、灸の口も障子の破れ目の下で大きく開いた。 灸はふとまだ自分が御飯を食べていない・・・ 横光利一 「赤い着物」
・・・ しかし我々は「生きている。」そうしてすべての謎とその解決とは「生きている」ことの内にひそんでいる。我々は生を凝視することによって恐らく知り難い秘密の啓示を恵まれる事もあるだろう。 昨夜私は急用のために茂った松林の間の小径を半ば馳け・・・ 和辻哲郎 「創作の心理について」
出典:青空文庫