・・・ベルリンでロッチェの晩年の講義を聞いたとかいうので、全くロッチェ学派であった。哲学概論といっても、ロッチェ哲学の梗概に過ぎなかった。その頃ドイツ人でも英語で講義した。中々元気のよい講義をする人で、調子附いて来ると、いつの間にか、英語の発音が・・・ 西田幾多郎 「明治二十四、五年頃の東京文科大学選科」
・・・しかれども彼が師巴人に受くるところ多からざりしは、成功の晩年にありしを見て知るべし。履歴性行等 蕪村は摂津浪花に近き毛馬塘の片ほとりに幼時を送りしことその春風馬堤曲に見ゆ。彼は某に与うる書中にこの曲のことを記して馬堤は毛・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・釈迦はその晩年、その思想いよいよ円熟するに従て全く菜食主義者ではなかったようである。見よ、釈迦は最後に鍛工チェンダというものの捧げたる食物を受けた。その食物は豚肉を主としている、釈迦はこの豚肉の為に予め害したる胃腸を全く救うべからざるものに・・・ 宮沢賢治 「ビジテリアン大祭」
・・・として書かなければならず、侘びの加った晩年の馬琴の述懐として行燈とともに描き出されなければならなかったのだろうか。 芥川龍之介という作家は、都会人的な複雑な自身の環境から、その生い立ちとともに与えられた資質や一種の美的姿勢や敏感さから、・・・ 宮本百合子 「鴎外・芥川・菊池の歴史小説」
つい先頃、或る友人があることの記念として私に小堀杏奴さんの「晩年の父」とほかにもう一冊の本をくれた。「晩年の父」はその夜のうちに読み終った。晩年の鴎外が馬にのって、白山への通りを行く朝、私は女学生で、彼の顔にふくまれている・・・ 宮本百合子 「鴎外・漱石・藤村など」
・・・中年の頃、石州流の茶をしていたのが、晩年に国を去って東京に出た頃から碾茶を止めて、煎茶を飲むことにした。盆栽と煎茶とが翁の道楽であった。 この北向きの室は、家じゅうで一番狭い間で、三畳敷である。何の手入もしないに、年々宿根が残っていて、・・・ 森鴎外 「カズイスチカ」
・・・狂歌は初代弥生庵雛麿の門人で雛亀と称し、晩年には桃の本鶴廬また源仙と云った。また俳諧をもして仙塢と号した。 父伊兵衛は恐らくは遊所に足を入れなかったであろう。然るに竜池は劇場に往き、妓楼に往った。竜池は中村、市村、森田の三座に見物に往く・・・ 森鴎外 「細木香以」
・・・弟は自分より七年後に、晩年の父が生ませた子である。元から余り気に入らない。なんだか病身らしくて、こわれもののような気がするので親み難い。それに感情が鋭敏過ぎて、気味の悪いような、自分と懸け離れているような所がある。それだから向うへ着いて幾日・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
・・・ この兼良が晩年に将軍義尚のために書いた『文明一統記』や『樵談治要』などは、相当に広く流布して、一般に武士の間で読まれたもののように思われるが、その内容は北畠親房などと同じような正直・慈悲の政治理想を説いたものである。この思想は正義と仁・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
・・・ 岡倉先生が晩年当大学文学部において「東洋巧芸史」を講ぜられた時、自分はその聴講生の一人であった。自分の学生時代に最も深い感銘を受けたものは、この講義と大塚先生の「最近文芸史」とである。大塚先生の講義はその熱烈な好学心をひしひしと我々の・・・ 和辻哲郎 「岡倉先生の思い出」
出典:青空文庫