・・・ ことしの晩秋、私は、格子縞の鳥打帽をまぶかにかぶって、Kを訪れた。口笛を三度すると、Kは、裏木戸をそっとあけて、出て来る。「いくら?」「お金じゃない。」 Kは、私の顔を覗きこむ。「死にたくなった?」「うん。」 ・・・ 太宰治 「秋風記」
・・・昨年の晩秋、ヨオゼフ・シゲティというブダペスト生れのヴァイオリンの名手が日本へやって来て、日比谷の公会堂で三度ほど演奏会をひらいたが、三度が三度ともたいへんな不人気であった。孤高狷介のこの四十歳の天才は、憤ってしまって、東京朝日新聞へ一文を・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
・・・昨年の晩秋、私の友人が、ついにこれの被害を受けた。いたましい犠牲者である。友人の話によると、友人は何もせず横丁を懐手してぶらぶら歩いていると、犬が道路上にちゃんと坐っていた。友人は、やはり何もせず、その犬の傍を通った。犬はその時、いやな横目・・・ 太宰治 「畜犬談」
・・・さらに晩秋には、神田・和泉町。その翌年の早春に、淀橋・柏木。なんの語るべき事も無い。朱麟堂と号して俳句に凝ったりしていた。老人である。例の仕事の手助けの為に、二度も留置場に入れられた。留置場から出る度に私は友人達の言いつけに従って、別な土地・・・ 太宰治 「東京八景」
・・・ 晩秋の或る日曜日、ふたりは東京郊外の井の頭公園であいびきをした。午前十時。 時刻も悪ければ、場所も悪かった。けれども二人には、金が無かった。いばらの奥深く掻きわけて行っても、すぐ傍を分別顔の、子供づれの家族がとおる。ふたり切りにな・・・ 太宰治 「犯人」
・・・昨年の晩秋に、須々木乙彦は、この銀座裏のバアにふらと立ち寄った。そうして、この同じソファに腰をおろし、十九のさちよと、雨の話をした。あのときと、同じ姿勢で、少しまえこごみの姿勢で、ソファに深く腰をおろし、いま、高須隆哉は、八重田数枝と、ウイ・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・ 晩秋騒夜、われ完璧の敗北を自覚した。 一銭を笑い、一銭に殴られたにすぎぬ。 私の瞳は、汚れてなかった。 享楽のための注射、一本、求めなかった。おめん! の声のみ盛大の二、三の剣術先生を避けたにすぎぬ。「水の・・・ 太宰治 「HUMAN LOST」
・・・ひとから、注意されないうちは、晩秋、初冬、厳寒、平気な顔して夏の白いシャツを黙って着ている。 私は、腕をのばし、机のわきの本棚から、或る日本の作家の、短篇集を取出し、口を、ヘの字型に結んだ。何か、顕微鏡的な研究でもはじめるように、ものも・・・ 太宰治 「懶惰の歌留多」
おもてには快楽をよそい、心には悩みわずらう。 ――ダンテ・アリギエリ 晩秋の夜、音楽会もすみ、日比谷公会堂から、おびただしい数の烏が、さまざまの形をして、押し合・・・ 太宰治 「渡り鳥」
・・・水面をすかして見ると青白い真珠色の皮膜を張ってその膜には氷裂状にひびがはいっているのであった。晩秋の夜ふけなどには、いつもちょうどこの土瓶のへんでこおろぎが声を張り上げて鳴いていたような気がする。 このきたない土瓶からきたない水を湯飲み・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
出典:青空文庫