・・・勉強をする時間が出来たわけだが、目的の脚本は少しも筆が取れないで、かえって読み終ったメレジコウスキの小説を縮小して、新情想を包んだ一大古典家、レオナドダヴィンチの高潔にしてしかも恨み多き生涯を紹介的に書き初めた。 ある晩のこと、虚心にな・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・再び世間に顔を出すほどの著述ではないが、ジスレリーの夢が漸く実現された時、その実余人の抄略したものを尾崎行雄自著と頗る御念の入った銘を打って、さも新らしい著述であるかのように再刊されたのは、腕白時代の書初めが麗々しく表装されて床の間に掛けら・・・ 内田魯庵 「四十年前」
・・・かねてから考えている著書を早く書き初めなければならぬと思う事もある。あるいは郷里の不幸や親戚に無沙汰をしている事を思い出す事もある。 しかしまた時として向こう河岸にもやっている荷物船から三菱の倉庫へ荷上げをしている人足の機械的に動くのを・・・ 寺田寅彦 「丸善と三越」
・・・これが竜泉寺町の通で、『たけくらべ』第一回の書初めに見る叙景の文は即ちこの処であった。道の片側は鉄漿溝に沿うて、廓者の住んでいる汚い長屋の立ちつづいた間から、江戸町一丁目と揚屋町との非常門を望み、また女郎屋の裏木戸ごとに引上げられた幾筋の刎・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・もっとも書き初めた時と、終る時分とは余程考が違って居た。文体なども人を真似るのがいやだったから、あんな風にやって見たに過ぎない。 何しろそんな風で今日迄やって来たのだが、以上を綜合して考えると、私は何事に対しても積極的でないから、考えて・・・ 夏目漱石 「処女作追懐談」
・・・これで、書初めもすんで、サア廻礼だ。」「おい杖を持て来い。」「どの杖をナ。」「どの杖ててまさかもう撞木杖なんかはつきやしないヨ。どれでもいいステッキサ。暫く振りで薩摩下駄を穿くんだが、非常に穿き心地がいい。足の裏の冷や冷やする心持は、な・・・ 正岡子規 「初夢」
・・・ と落ちる雨だれの音を五月蠅く思いながら久しく手紙を出さなかった大森の親しい友達の処へ手紙を書き初めた。 珍らしく巻紙へ細い字で書き続けた。 蝶が大変少ない処だとか。 魚の不愉快な臭いがどこかしらんただよって居る。とか云って・・・ 宮本百合子 「千世子(二)」
・・・私はもうこの手紙を書き初めた時の目的を達しました。 空が物すごく晴れて月が鋭く輝いています。虫の音は弱々しく寂れて来ました。私は今あなたと二人で話に夜をふかした時のような心持ちになっています。では安らかにおやすみなさい。・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
出典:青空文庫