・・・たぶん宿の廚の料理人が引致して連れて行ったものらしく、ともかくもちょうどその晩宿の本館は一団の軍人客でたいそうにぎやかであったそうである。そうしてそのときに池に残された弱虫のほうの雄が、今ではこの池の王者となり暴君となりドンファンとなってい・・・ 寺田寅彦 「あひると猿」
・・・ 十五日の晩は雨でお流れになるかと思ったらみんな本館の大広間へ上がって夜ふけるまで踊り続けていた。蓄音器の代わりに宿の女中の一人が歌っているということであった。人間のほうが器械の声よりもどんなに美しいか到底比較にならないのであるが、しか・・・ 寺田寅彦 「沓掛より」
・・・ 宿の本館に基督教信者の団体が百人ほど泊っていた。朝夕に讃美歌の合唱が聞こえて、それがこうした山間の静寂な天地で聞くと一層美しく清らかなものに聞こえた。みんな若い人達で婦人も若干交じっていた。昔自分達が若かった頃のクリスチャンのよう・・・ 寺田寅彦 「高原」
・・・しかし本館のほうにいた水上理学士は障子にあたって揺れる気波を感知したそうである。また自分たちの家の裏の丘上の別荘にいた人は爆音を聞き、そのあとで岩のくずれ落ちるような物すごい物音がしばらく持続して鳴り響くのを聞いたそうである。あいにく山が雲・・・ 寺田寅彦 「小爆発二件」
ことしの夏、信州のある温泉宿の離れに泊まっていたある夜の事である。池を隔てた本館前の広場で盆踊りが行なわれて、それがまさにたけなわなころ、私の二人の子供がベランダの籐椅子に腰かけて、池の向こうの植え込みのすきから見える踊り・・・ 寺田寅彦 「人魂の一つの場合」
・・・われわれの教室は本館の一番北の外れの、今食堂になっている、あそこにありました。文科の教室で。それが明治二十二年位でした。その時分の事を今の貴方がたに比べると、われわれ時代の書生というものは乱暴で、よほど不良少年という傾き――人によるとむしろ・・・ 夏目漱石 「模倣と独立」
・・・そこから日本大使館へ廻った。本館の帝政時代のままの埃及式大装飾の中に、大使はぽつねんと日本の皮膚をちぢめて暮している。事務所は、離れた低い海老茶色の建物で、周囲の雪がいつも凍っている。今日は雪が氷の上に降った。 白いタイル張りの暖炉があ・・・ 宮本百合子 「シナーニ書店のベンチ」
・・・この集りは、上野の図書館の婦人閲覧室が、夜はほんとうに気味のわるかった音楽学校の森よりの場所から、本館の三階の上へ移って後、つくられたものなのであった。 女の友情と云えば、たよりないものであったのも、つまりは婦人が社会人として無力であっ・・・ 宮本百合子 「図書館」
出典:青空文庫