・・・大きな白樺が五、六本折れ重なって倒れたまま朽ちかかっている。朽木の香があたりに立ち籠めている。 遠くで角笛の音がする。やがて犬の吠声、駒の蹄の音が聞えて、それがだんだんに近付いて来る。汀の草の中から鳥が飛び立って樹立の闇へ消えて行く。・・・ 寺田寅彦 「ある幻想曲の序」
・・・刈ったあとには茶褐色にやけた朽ち葉と根との網の上に、まっ白にもえた茎が、針を植えたように現われた。そして強い土の香がぷんと鼻にしみるように立ちのぼった。 無数の葉の一つ一つがきわめて迅速に相次いで切断されるために生ずる特殊な音はいろいろ・・・ 寺田寅彦 「芝刈り」
・・・しかし今見れば散りつもる落葉の朽ち腐された汚水の溜りに過ぎない。 碑の立てられた文化九年には南畝は既に六十四歳になっていた。江戸から遠くここに来って親しく井の水を掬んだか否か。文献の徴すべきものがあれば好事家の幸である。 わたくしは・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・蟻、やすで、むかで、げじげじ、みみず、小蛇、地蟲、はさみ蟲、冬の住家に眠って居たさまざまな蟲けらは、朽ちた井戸側の間から、ぞろぞろ、ぬるぬる、うごめき出し、木枯の寒い風にのたうち廻って、その場に生白い腹を見せながら斃死ってしまうのも多かった・・・ 永井荷風 「狐」
・・・囓まるるとも螫さるるとも、口縄の朽ち果つるまでかくてあらんと思い定めたるに、あら悲し。薔薇の花の紅なるが、めらめらと燃え出して、繋げる蛇を焼かんとす。しばらくして君とわれの間にあまれる一尋余りは、真中より青き烟を吐いて金の鱗の色変り行くと思・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・そのたしか隣の裏をずっとはいると、玄関構えの朽ちつくした僕の故家があった。もう今は無くなったかもしれぬ。僕の家は武田信玄の苗裔だぜ。えらいだろう。ところが一つえらくないことがあるんだ。何でも何代目かの人が、君に裏切りとかをしたということだ。・・・ 夏目漱石 「僕の昔」
・・・わたくしはたれにも知られず巨きな森のなかで朽ちてしまうのです。」「それはあなたも同じです。すべて私に来て、私をかがやかすものは、あなたをもきらめかします。私に与えられたすべてのほめことばは、そのままあなたに贈られます。」「私を教えて・・・ 宮沢賢治 「マリヴロンと少女」
・・・乾坤を照し尽す無量光埴の星さえ輝き初め我踏む土は尊や白埴木ぐれに潜む物の隈なく黄朽ち葉を装いなすは夜光の玉か神のみすまるか奇しき光りよ。常珍らなるかかる夜は燿郷の十二宮眼くるめく月の宮瑠璃・・・ 宮本百合子 「秋の夜」
・・・其処に 日が照り 香気がちり朽ちても 大地に種を落す命の ひきつぎて となり得るのだ。私は、謙譲な 一人の侍女それ等の果物を一つ一つみのるがまま、色づくがまま捧げて 神に供える。朝 園を見まわり身体を・・・ 宮本百合子 「五月の空」
・・・老木の朽ち枯れるそばで、若木は茂り栄えて行く。嫡子光尚の周囲にいる少壮者どもから見れば、自分の任用している老成人らは、もういなくてよいのである。邪魔にもなるのである。自分は彼らを生きながらえさせて、自分にしたと同じ奉公を光尚にさせたいと思う・・・ 森鴎外 「阿部一族」
出典:青空文庫