・・・黒い藪だの松林だのぐんぐん窓を通って行く。北上山地の上のへりが時々かすかに見える。さあいよいよぼくらも岩手県をはなれるのだ。うちではみんなもう寝ただろう。祖母さんはぼくにお守りを借してくれた。さよなら、北上山地、北上川、岩手県の夜の・・・ 宮沢賢治 「或る農学生の日誌」
・・・ ぼくらは、蝉が雨のように鳴いているいつもの松林を通って、それから、祭のときの瓦斯のような匂のむっとする、ねむの河原を急いで抜けて、いつものさいかち淵に行った。今日なら、もうほんとうに立派な雲の峰が、東でむくむく盛りあがり、みみずくの頭・・・ 宮沢賢治 「さいかち淵」
・・・そこの松林の中から黒い畑が一枚出てきます。(ああ畑も入ります入ります。遊園地なんて誰だったかな、云っていた、あてにならない。こんな畑を云うんだろう。おれのはもっとずっと上流の北上川から遠くの東の山地まで見はらせるようにあの小桜山の下・・・ 宮沢賢治 「台川」
・・・ どっか松林の下に列車が止ってしまった。兎が見えたらしい。廊下で、 男の声 ここいらの住民は兎は食わないんです。 女の声 でも沢山とるんでしょう? カンヅメ工場でも建てりゃいいのに。 思わず答えた。それっきりしずかだ。雪の上・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
・・・「あの一番池の北の堤の下の松林のわきにあるそりゃあみじめな家なんだよ」とおっしゃる。見えないとは知りつつ一番池のけんとうを見る。清の家はかげも形も見えなく只向う山が紫の霞にとざされているの許がはっきり目に見える。熟柿くさい息をハーハー吸きな・・・ 宮本百合子 「同じ娘でも」
・・・ 行手に、そろそろ二本アーク燈の柱が見え始めた。松林がその辺で少し浜へ辷り出している。数艘、漁船が引上げられ、干されている。彼等はその辺から村の街道へ登るわけだ。跟いて来た犬は、別れが近づいたのを知ったように、盛にその辺を跳ね廻った。父・・・ 宮本百合子 「海浜一日」
・・・あれは豊干さんが松林の中から拾って帰られた捨て子でございます」「はあ。そして当寺では何をしておられますか」「拾われて参ってから三年ほど立ちましたとき、食堂で上座の像に香を上げたり、燈明を上げたり、そのほか供えものをさせたりいたしまし・・・ 森鴎外 「寒山拾得」
・・・大夫は街道を南へはいった松林の中の草の家に四人を留めて、芋粥をすすめた。そしてどこからどこへ往く旅かと問うた。くたびれた子供らをさきへ寝させて、母は宿の主人に身の上のおおよそを、かすかな燈火のもとで話した。 自分は岩代のものである。夫が・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
一 秋の雨がしとしとと松林の上に降り注いでいます。おりおり赤松の梢を揺り動かして行く風が消えるように通りすぎたあとには、――また田畑の色が豊かに黄ばんで来たのを有頂天になって喜んでいるらしいおしゃべりな雀が羽音をそろえて屋根や軒・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
・・・そうして子供は一切を忘れて、この探求に自己を没入するのである。松林の下草の具合、土の感じ、灌木の形などは、この探求の道においてきわめて鋭敏に子供によって観察される。茸の見いだされ得るような場所の感じが、はっきりと子供の心に浮かぶようになる。・・・ 和辻哲郎 「茸狩り」
出典:青空文庫