・・・枕もとに松籟をきいて、しばらく理窟も学問もなくなった。が、ふと、昼飯の膳に、一銚子添えさせるのを言忘れたのに心づいて、そこで起上った。 どこを探しても呼鈴が見当らない。 二三度手を敲いてみたが――これは初めから成算がなかった。勝手が・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・ ここは武蔵野のはずれ、深夜の松籟は、浪の響きに似ています。此の、ひきむしられるような凄しさの在る限り、文学も不滅と思われますが、それも私の老書生らしい感傷で、お笑い草かも知れませぬ。先生御自愛を祈ります。敬具。 六月十日木戸・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・裏の松林からときどき松籟が聞こえた。雑草の蔭に濃い紫菫が咲いていた。 見積りも面倒なく済んで、地形にとりかかった。石川の経験ではすらりと進み過ぎたくらいの仕事であった。実を云えば、見積書をもって行って手金を受取るまで、石川は大して当にし・・・ 宮本百合子 「牡丹」
東京の郊外で夏を送っていると、時々松風の音をなつかしく思い起こすことがある。近所にも松の木がないわけではないが、しかし皆小さい庭木で、松籟の爽やかな響きを伝えるような亭々たる大樹は、まずないと言ってよい。それに代わるものは欅の大樹で、・・・ 和辻哲郎 「松風の音」
出典:青空文庫