・・・ 六「昨年のことで、妙にまたいとこはとこが搦みますが、これから新宿の汽車や大久保、板橋を越しまして、赤羽へ参ります、赤羽の停車場から四人詰ばかりの小さい馬車が往復しまする。岩淵の渡場手前に、姉の忰が、女房持で水呑・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・で、折れかかった板橋を跨いで、さっと銀をよないだ一幅の流の汀へ出ました。川というより色紙形の湖です。一等、水の綺麗な場所でな。居士が言いましたよ。耕地が一面に向うへ展けて、正面に乙女峠が見渡される……この荒庭のすぐ水の上が、いま詣でた榎の宮・・・ 泉鏡花 「半島一奇抄」
・・・ そこで僕は武蔵野はまず雑司谷から起こって線を引いてみると、それから板橋の中仙道の西側を通って川越近傍まで達し、君の一編に示された入間郡を包んで円く甲武線の立川駅に来る。この範囲の間に所沢、田無などいう駅がどんなに趣味が多いか……ことに・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・かかる類に漏るべき、ただ東より西へと爪先上がりの勾配ゆるく、中央をば走り流るる小川ありて水上は別荘を貫く流れと同じく、町人はみなこの小川にてさまざまのもの洗いすすげど水のやや濁れるをいとわず、流れには板橋いくつかかかりて、水際には背低き楓を・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・ 伯母の夫は、足駄をはいて、両手に一俵ずつ四斗俵を鷲掴みにさげて歩いたり、肩の上へ同時に三俵の米俵をのっけて、河にかけられた細い、ひわ/\する板橋を渡ったりする力持ちだった。その伯父が、男は、嫁を取ると、もうそれからは力が増して来ない。・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・彼は、板橋を渡ると、ずるげな、同時に嬉しげな笑い方をして、遠くから、声をかけた。「くそッ! じゃ、もう検査はないんかい?」「すんじゃったんだ。」「見まわりにも来ずに、どうしてすんだんだい?」「略図を見て、すましちゃったんだ。・・・ 黒島伝治 「土鼠と落盤」
・・・そこで、ふと見ると小溝の上に小さな板橋とおぼしいのが渡っているのが見えたので、其板橋の堅さを仮りてと橋の上にかかったが、板橋では無くて、柴橋に置土をした風雅のものだったのが一ト踏で覚り知られた。これではいけぬと思うより早く橋を渡り越して其突・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・千葉県船橋。板橋の病室。天沼のアパート。天沼の下宿。甲州御坂峠。甲府市の下宿。甲府市郊外の家。東京都下三鷹町。甲府水門町。甲府新柳町。津軽。 忘れているところもあるかも知れないが、これだけでも既に二十五回の転居である。いや、二十五回の破・・・ 太宰治 「十五年間」
・・・船橋へ転地して一箇年経って、昭和十一年の秋に私は自動車に乗せられ、東京、板橋区の或る病院に運び込まれた。一夜眠って、眼が覚めてみると、私は脳病院の一室にいた。 一箇月そこで暮して、秋晴れの日の午後、やっと退院を許された。私は、迎えに来て・・・ 太宰治 「東京八景」
・・・ 十月十三日より、板橋区のとある病院にいる。来て、三日間、歯ぎしりして泣いてばかりいた。銅貨のふくしゅうだ。ここは、気ちがい病院なのだ。となりの部屋の若旦那は、ふすまをあけたら、浴衣がかかっていて、どうも工合いがわるかった、など言って、・・・ 太宰治 「HUMAN LOST」
出典:青空文庫