・・・ その後にもう一度、今度は浦和から志木野火止を経て成増板橋の方へ帰って来るという道筋を選んでみた。志村から浦和まではやはり地図にない立派な道路が真直ぐに通っている。この辺の昔のままの荒川沿いの景色がこうしたモダーンな道路をドライヴしなが・・・ 寺田寅彦 「異質触媒作用」
・・・昭和通りに二つ並んで建ちかかっている大ビルディングの鉄骨構造をねらったピントの中へ板橋あたりから来たかと思う駄馬が顔を出したり、小さな教会堂の門前へ隣のカフェの開業祝いの花輪飾りが押し立ててあったり、また日本一モダーンなショーウィンドウの前・・・ 寺田寅彦 「カメラをさげて」
・・・一人は近景に黍の行列を入れ一人は溝にかかった板橋を使っていた。一人のは赤黒く一人のは著しく黄色っぽい調子が目についた。 私は少し行き過ぎて、深い掘割溝の崖の縁にすわって溝渠と道路のパースペクチーヴをまん中に入れたのを描いた。近所の子供ら・・・ 寺田寅彦 「写生紀行」
・・・九月三日 曇後雨 朝九時頃から長男を板橋へやり、三代吉を頼んで白米、野菜、塩などを送らせるようにする。自分は大学へ出かけた。追分の通りの片側を田舎へ避難する人が引切りなしに通った。反対の側はまだ避難していた人が帰って来るのや、・・・ 寺田寅彦 「震災日記より」
・・・この浮間ヶ原も今は工場の多い板橋区内の陋巷となり、桜草のことを言う人もない。 ダリヤは天竺牡丹といわれ稀に見るものとして珍重された。それはコスモスの流行よりも年代はずっと早かったであろう。チュリップ、ヒヤシンス、ベコニヤなどもダリヤと同・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・両側に立ち続く小家は、堤の上に板橋をかけわたし、日満食堂などと書いた納簾を飜しているのもある。人家の灯で案外明いが、人通りはない。 車は小松嶋という停留場につく。雨外套の職工が降りて車の中は、いよいよ広くなった。次に停車した地蔵阪という・・・ 永井荷風 「寺じまの記」
・・・水の光で明く見える板橋の上を提灯つけた車が走る。それらの景色をばいい知れず美しく悲しく感じて、満腔の詩情を托したその頃の自分は若いものであった。煩悶を知らなかった。江戸趣味の恍惚のみに満足して、心は実に平和であった。硯友社の芸術を立派なもの・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・東京板橋の区民が、食糧管理委員会を組織し、板橋の造兵廠内に隠匿されてあった食糧を発見、それを区民に特別分配した。新聞は、群集した区民に向って、気前よく米、麦、大豆、乾パン類を分配している光景のスナップを掲載した。 それはこの一月二十一日・・・ 宮本百合子 「人民戦線への一歩」
出典:青空文庫