・・・ きちょうめんに正座して、父は例の皮表紙の懐中手帳を取り出して、かねてからの不審の点を、からんだような言い振りで問いつめて行った。彼はこの場合、懐手をして二人の折衝を傍観する居心地の悪い立場にあった。その代わり、彼は生まれてはじめて、父・・・ 有島武郎 「親子」
・・・見ると、玄関の式台には紋服を着た小坂吉之助氏が、扇子を膝に立てて厳然と正座していた。「いや。ちょっと。」私はわけのわからぬ言葉を発して、携帯の風呂敷包を下駄箱の上に置き、素早くほどいて紋附羽織を取出し、着て来た黒い羽織と着換えたところま・・・ 太宰治 「佳日」
・・・ 十八日井原退蔵 木戸一郎様 一枚の葉書の始末に窮して、机の上に置きそれに向ってきちんと正坐してみても落ち附かず、その葉書を持って立ち上り、部屋の中をうろうろ歩き廻ってみても、いよいよ途方に暮れるばかりで、いっそ・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・ 中学一年の男の子は、正坐して、そうしてきちんと両手を膝に置き、実に行儀よく放送の開始を待っている。この子は、容貌も端麗で、しかも学校がよく出来る。そうして、お父さんを心から尊敬している。 放送開始。 父は平然と煙草を吸いはじめ・・・ 太宰治 「家庭の幸福」
・・・書斎の机上に飾り、ひさしぶりの読書したくなって、机のまえに正坐し、まず机の引き出しを整理し、さいころが出て来たので、二、三度、いや、正確に三度、机のうえでころがしてみて、それから、片方に白いふさふさの羽毛を附したる竹製の耳掻きを見つけて、耳・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・風呂へはいって鬚を剃り、それから私は、部屋の炉の前に端然と正座した。新潟で一日、高等学校の生徒を相手にして来た余波で私は、ばかに行儀正しくなっていた。女中さんにも、棒を呑んだような姿勢で、ひどく切口上な応対をしていた。自分ながら可笑しかった・・・ 太宰治 「佐渡」
・・・ 部屋へあがって、座ぶとんに膝を折って正坐し、「私は、正気ですよ。正気ですよ。いいですか? 信じますか?」 とにこりともせず、そう言った。 はてな? とも思ったが、私は笑って、「なんですか? どうしたのです。あぐらになさ・・・ 太宰治 「女神」
・・・かれは未だ二十二歳の筈であるが、その、本郷の下宿屋の一室に於いて、端然と正座し、囲碁の独り稽古にふけっている有様を望見するに、どこやら雲中白鶴の趣さえ感ぜられる。時々、背広服を着て旅に出る。鞄には原稿用紙とペン、インク、悪の華、新約聖書、戦・・・ 太宰治 「令嬢アユ」
・・・ 先生はいつも黒い羽織を着て端然として正座していたように思う。結婚してまもなかった若い奥さんは黒ちりめんの紋付きを着て玄関に出て来られたこともあった。田舎者の自分の目には先生の家庭がずいぶん端正で典雅なもののように思われた。いつでも上等・・・ 寺田寅彦 「夏目漱石先生の追憶」
・・・きれいに片付いた六畳ぐらいの居間の小さな火鉢の前に寒そうな顔色をして端然と正座しているのである。 文章会で四方太氏が自分の文章を読み上げる少しさびのある音声にも、関西なまりのある口調にも忘れ難い特色があったが、その読み方も実にきちんとし・・・ 寺田寅彦 「俳諧瑣談」
出典:青空文庫