・・・実際には幾つかの事情がかたまって亡命させたのだろうが、原因はどうであろうとも、とにかく若殿の近侍であった宗房がその主人の死とともに出奔し得たところに、その時代の武士気質が崩れかけて、もう武家時代の気風と異って来ている空気が感じられて面白い。・・・ 宮本百合子 「芭蕉について」
・・・経済の中心が町人の階級にうつって、これまでは武家の掟で沈黙させられていた人間の種々さまざまの人情が、自然な流露を求めてあらゆる方面に動いた。西鶴の小説などは、よかれあしかれ、そういう時代の世相を描いてまざまざと今日につたえているのだけれども・・・ 宮本百合子 「三つの「女大学」」
・・・ 藤原時代は武家政治の時代に移った。政治の主権は藤原氏から足利に移りやがて織田信長の時代になって日本では、封建社会が確立される一歩をしるした。 豊臣秀吉を経て、徳川家康から家光の時代に、日本の封建制度は全く動かないものとなり、明治に・・・ 宮本百合子 「私たちの建設」
・・・られ候に、泰勝院殿は甲冑刀剣弓鎗の類を陳ねて御見せなされ、蒲生殿意外に思されながら、一応御覧あり、さて実は茶器拝見致したく参上したる次第なりと申され、泰勝院殿御笑いなされ、先きには道具と仰せられ候故、武家の表道具を御覧に入れたり、茶器ならば・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書」
・・・られ候に、泰勝院殿は甲冑刀剣弓鎗の類を陳ねて御見せなされ、蒲生殿意外に思されながら、一応御覧あり、さて実は茶器拝見致したく参上したる次第なりと申され、泰勝院殿御笑いなされ、先きには道具と仰せられ候故、武家の表道具を御覧に入れたり、茶器ならば・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書(初稿)」
・・・墓参に来たのは原田、桜井の女房達で、厳しい武家奉公をしている未亡人やりよは来なかった。 戌の下刻になった時、九郎右衛門は文吉に言った。「さあ、これから捜しに出るのだ。見附けるまでは足を摺粉木にして歩くぞ」 遍立寺を旅支度のままで・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・この話は「続武家閑話」に拠ったものである。佐橋家の家譜等では、甚五郎ははやく永禄六年一向宗徒に与して討死している。「甲子夜話」には、慶長十二年の朝鮮の使にまじっていた徳川家の旧臣を、筧又蔵だとしてある。林春斎の「韓使来聘記」等に・・・ 森鴎外 「佐橋甚五郎」
・・・そこでるんは一生武家奉公をしようと思い立って、世話になっている笠原を始、親類に奉公先を捜すことを頼んだ。 暫く立つと、有竹氏の主家戸田淡路守氏養の隣邸、筑前国福岡の領主黒田家の当主松平筑前守治之の奥で、物馴れた女中を欲しがっていると云う・・・ 森鴎外 「じいさんばあさん」
・・・日本の独自の文化であると考えられる平安朝の文化が、鎌倉時代の武家文化に覆われていた後に、ふたたびここで蘇生して来ているからである。この見方はなかなか当たっていると思われる。室町時代の文化を何となく貶しめるのは、江戸幕府の政策に起因した一種の・・・ 和辻哲郎 「埋もれた日本」
出典:青空文庫