・・・実際その時は総身の毛穴へ、ことごとく風がふきこんだかと思うほど、ぞっと背筋から寒くなって、息さえつまるような心もちだったのでしょう。いくら声を立てようと思っても、舌が動かなかったと云う事でした。が、幸その眼の方でも、しばらくは懸命の憎悪を瞳・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・……これが生得絵を見ても毛穴が立つほど鼠が嫌なんだと言います。ここにおいて、居士が、騎士に鬢髪を染めた次第です。宿のその二階家の前は、一杯の人だかりで……欄干の二階の雨戸も、軒の大戸も、ぴったりと閉まっていました。口々に雑談をするのを聞くと・・・ 泉鏡花 「半島一奇抄」
・・・その時、僕は、毛穴の立っているおからす芸者を男にしてしまっても、田島を女にして見たいと思ったくらいだから、僕以前はもちろん、今とても、吉弥が実際かれと無関係でいるとは信じられなくなった。どうせ、貞操などをかれこれ言うべきものでないのはもちろ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・なぜもっと早く、いっそ明るいうちに帰って来ないのかと、骨がくずれるような後悔に足をさらわれてしまう。毛穴から火が吹きだすほどの熱、ぬらぬらしたリパード質に包まれた結核菌がアルコール漬の三月仔のような不気味な恰好で肝臓のなかに蠢いているだろう・・・ 織田作之助 「道」
・・・だから、寿子は祭に行きたいと駄々をこねることも出来ず、毛穴という毛穴から汗を吹きだしながら、ちいさな手に力をこめて、弾いていた。額の汗が眼にはいるので、眼を閉じ、歯をくいしばり、必死のようであった。が、心はふと遠く祭の方へ飛ぶ瞬間もあった。・・・ 織田作之助 「道なき道」
・・・ 長い間、雨の中を傘なしで歩いて来たので、下着を透して毛穴まで濡れていた。五月だが、寒く、冷たい。「しかし、この娘の方がもっと寒いだろう」 ガタガタ顫えている娘の身ぶるいを感ずると、少しでも早く雨をしのぐところを探してやりたかっ・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・佐竹の顔は肌理も毛穴も全然ないてかてかに磨きあげられた乳白色の能面の感じであった。瞳の焦点がさだかでなく、硝子製の眼玉のようで、鼻は象牙細工のように冷く、鼻筋が剣のようにするどかった。眉は柳の葉のように細長く、うすい唇は苺のように赤かった。・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
・・・ただ身体中の毛穴から暖かい日光を吸い込んで、それがこのしなびた肉体の中に滲み込んで行くような心持をかすかに自覚しているだけであった。 ふと気がついて見ると私のすぐ眼の前の縁側の端に一枚の浅草紙が落ちている。それはまだ新しい、ちっとも汚れ・・・ 寺田寅彦 「浅草紙」
・・・現在のチューインガムも、それが噛み尽されて八万四千の毛孔から滲み出す頃には、また別な新しい日本文化となって栄えるのかもしれないのである。 寺田寅彦 「チューインガム」
・・・乗客の全部の顔が狸や猿のように見えた。毛孔の底に煤と土が沈着しているらしい。向い側に腰かけた中年の男の熟柿のような顔の真ん中に二つの鼻の孔が妙に大きく正面をにらんでいるのが気になった。上野で乗換えると乗客の人種が一変する。ここにも著しい異質・・・ 寺田寅彦 「猫の穴掘り」
出典:青空文庫