・・・三人は身体を横にして、立肱に頭を載せて、白けきった気持の沈黙を続けていたが、ふとまた笹川の深く憫れむといったような眼つきが私の顔に投げつけられたので、私は思わずひやりとした。「僕はこれで馬越君のことについては、これまでいろいろと考えてき・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・それは変につらい沈黙でした。友はまた京都にいた時代、電車の窓と窓がすれちがうとき「あちらの第何番目の窓にいる娘が今度自分の生活に交渉を持って来るのだ」とその番号を心のなかで極め、託宣を聴くような気持ですれちがうのを待っていた――そんなことを・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・ああ武蔵野沈黙す。しかも耳を澄ませば遠きかなたの林をわたる風の音す、はたして風声か」同十四日――「今朝大雪、葡萄棚堕ちぬ。 夜更けぬ。梢をわたる風の音遠く聞こゆ、ああこれ武蔵野の林より林をわたる冬の夜寒の凩なるかな。雪どけの滴声軒を・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・それも、曠野の沈黙に吸われるようにすぐどこかへ消えてしまった。 ペーターの息子、イワン・ペトロウイチが手綱を取っている橇に、大隊長と副官とが乗っていた。鞭が風を切って馬の尻に鳴った。馬は、滑らないように下面に釘が突出している氷上蹄鉄で、・・・ 黒島伝治 「橇」
・・・ちょうど町では米騒動以来の不思議な沈黙がしばらくあたりを支配したあとであった。市内電車従業員の罷業のうわさも伝わって来るころだ。植木坂の上を通る電車もまれだった。たまに通る電車は町の空に悲壮な音を立てて、窪い谷の下にあるような私の家の四畳半・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・寒さは余りひどくなかったが、単調な、広漠たる、あらゆるものの音を呑み込んでしまうような沈黙をなしている雪が、そこら一面に空虚と死との感じを広がらせている。いつも野らで為事をしている百姓の女房の曲った背中も、どこにも見えない。河に沿うて、河か・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・あんまり緊張して、ついには机のまえに端座したまま、そのまま、沈黙は金、という格言を底知れず肯定している、そんなあわれな作家さえ出て来ぬともかぎらない。 謙譲を、作家にのみ要求し、作家は大いに恐縮し、卑屈なほどへりくだって、そうして読者は・・・ 太宰治 「一歩前進二歩退却」
・・・ 言葉の節約によって始めて発見されたおもしろい事実は、発声映画によって始めて完全に「沈黙」が表現されうるということであった。無声映画ではただわずかに視覚的に暗示されるに過ぎなかった沈黙と静寂とが発声映画によってはじめて力強い実感として表・・・ 寺田寅彦 「映画芸術」
・・・そうかと思うと暫らく沈黙に耽って居る。「殺した方あよかんべな」 投げ出したように低い声でいった。其処には対手に縋って留めてくれという意味もあった。だが殺すなという声は太十の耳に響かなかった。「それじゃ思い切ってやっちまあんだな。・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・天上に在って音響を厭いたる彼は地下に入っても沈黙を愛したるものか。 最後に勝手口から庭に案内される。例の四角な平地を見廻して見ると木らしい木、草らしい草は少しも見えぬ。婆さんの話しによると昔は桜もあった、葡萄もあった。胡桃もあったそうだ・・・ 夏目漱石 「カーライル博物館」
出典:青空文庫