・・・いつもは涼しゅう聞える泉の音も、どうやら油蝉の声にまぎれて、反って暑苦しゅうなってしもうた。どれ、また童部たちに煽いででも貰おうか。「何、往来のものどもが集った? ではそちらへ参ると致そう。童部たちもその大団扇を忘れずに後からかついで参・・・ 芥川竜之介 「竜」
・・・ 導かるるまま、折戸を入ると、そんなに広いと言うではないが、谷間の一軒家と言った形で、三方が高台の森、林に包まれた、ゆっくりした荒れた庭で、むこうに座敷の、縁が涼しく、油蝉の中に閑寂に見えた。私はちょっと其処へ掛けて、会釈で済ますつもり・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・この百日紅に油蝉がいっぱいたかって、朝っから晩までしゃあしゃあ鳴くので気が狂いかけました。」 僕は思わず笑わされた。「いや、ほんとうですよ。かなわないので、こんなに髪を短くしたり、さまざまこれで苦心をしたのですよ。でも、きょうはよく・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・その凝固した空気の中から絞り出されるように油蝉の声が降りそそぐ。そのくせ世間が一体に妙にしんとして静かに眠っているようにも思われる。じっとしていると気がちがいそうな鬱陶しさである。この圧迫するような感じを救うためには猿股一つになって井戸水を・・・ 寺田寅彦 「夕凪と夕風」
出典:青空文庫