・・・半ば朽ちた其幹は黒い洞穴にうがたれ、枯れた数条の枝の悲しげに垂れ下った有様。それを見ただけでも、私は云われぬ気味悪さに打たれて、埋めたくも埋められぬと云う深い深い井戸の底を覗いて見ようなぞとは、思いも寄らぬ事であった。 敢て私のみではな・・・ 永井荷風 「狐」
・・・横町は真直なようでも不規則に迂曲っていて、片側に続いた倉庫の戸口からは何れも裏手の桟橋から下る堀割の水の面が丁度洞穴の中から外を覗いたように、暗い倉の中を透してギラギラ輝って見える。荒布の前掛を締めた荷揚の人足が水に臨んだ倉の戸口に蹲踞んで・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・ところが約五六丁も来ると、磯際に大きな洞穴があって、両人がそれへ這入ると、うまい具合と申すか、折悪くと申すか、潮が上げて来て出る事がむずかしくなりました。老人は洞穴の上へ坐ったまま、沖の白帆を眺めて、潮が引いて両人の出て来るのを待っておりま・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・其外に今一種のミイラというのはよく山の中の洞穴の中などで発見するやつで、人間が坐ったままで堅くなって死んでおるやつである。こいつは棺にも入れず葬むりもしないから誠に自由な感じがして甚だ心持がよいわけであるが、併し誰れかに見つけられて此ミイラ・・・ 正岡子規 「死後」
・・・山のなかごろに大きな洞穴ががらんとあいている。そこから淵沢川がいきなり三百尺ぐらいの滝になってひのきやいたやのしげみの中をごうと落ちて来る。 中山街道はこのごろは誰も歩かないから蕗やいたどりがいっぱいに生えたり牛が遁げて登らないように柵・・・ 宮沢賢治 「なめとこ山の熊」
・・・眼がさめたのだ、洞穴はまだまっ暗で恐らくは十二時にもならないらしかった。そこで楢ノ木大学士は一つ小さなせきばらいをしまだ雷竜がいるようなのでつくづく闇をすかして見る。外ではたしかに涛の音「なあんだ。馬鹿に・・・ 宮沢賢治 「楢ノ木大学士の野宿」
・・・あるときは洞穴のようにまっくらです」 ひかりしずかな天河石のりんどうも、もうとても踊りださずにいられないというようにサァン、ツァン、サァン、ツァン、からだをうごかして調子をとりながら言いました。「その十力の金剛石は春の風よりやわらか・・・ 宮沢賢治 「虹の絵具皿」
・・・その六十里の海岸を町から町へ、岬から岬へ、岩礁から岩礁へ、海藻を押葉にしたり、岩石の標本をとったり、古い洞穴や模型的な地形を写真やスケッチにとったり、そしてそれを次々に荷造りして役所へ送りながら、二十幾日の間にだんだん南へ移って行きました。・・・ 宮沢賢治 「ポラーノの広場」
・・・ 奥深くもぐってはいると、洞穴のようになった所がある。下には大きい材木が横になっているので、床を張ったようである。 男の子が先に立って、横になっている材木の上に乗って、一番隅へはいって、「姉えさん、早くおいでなさい」と呼ぶ。 姉・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
・・・さみしさ凄さはこればかりでもなくて、曲りくねッたさも悪徒らしい古木の洞穴には梟があの怖らしい両眼で月を睨みながら宿鳥を引き裂いて生血をぽたぽた…… 崖下にある一構えの第宅は郷士の住処と見え、よほど古びてはいるが、骨太く粧飾少く、夕顔の干・・・ 山田美妙 「武蔵野」
出典:青空文庫