・・・と出した名刺には五号活字で岡本誠夫としてあるばかり、何の肩書もない。受付はそれを受取り急いで二階に上って去ったが間もなく降りて来て「どうぞ此方へ」と案内した、導かれて二階へ上ると、煖炉を熾に燃いていたので、ムッとする程温かい。煖炉の前に・・・ 国木田独歩 「牛肉と馬鈴薯」
・・・とぼとぼと瞬く灯の下で活字を追っていると、窓の外を夜遊びして帰った寮生の連中が、「ローベンはよせ」「糞勉強はやめろ」などと怒鳴りながら通って行く。その声を聞きつつ何か勝利感に似たものをハッキリと覚えている。 読書は自信感を与えるものであ・・・ 倉田百三 「学生と読書」
・・・ある社で計画した今度の新しい叢書は著作者の顔触れも広く取り入れてあるもので、その中には私の先輩の名も見え、私の友だちの名も見えるが、菊版三段組み、六号活字、総振り仮名付きで、一冊三四百ぺージもあるものを思い切った安い定価で予約応募者にわかと・・・ 島崎藤村 「分配」
・・・ 二十五年間? 活字のあやまりではないだろうか。太宰は、まだ三十九歳の筈である。三十九から二十五を引くと、十四だ。 しかし、それは、決して活字のあやまりではないのである。私は十四のとしから、井伏さんの作品を愛読していたのである。二十五年・・・ 太宰治 「『井伏鱒二選集』後記」
・・・そうして聖書の小さい活字の一つ一つだけが、それこそ宝石のようにきらきら光って来るから不思議です。あの温泉宿で、ただ、うろうろして一枚の作品も書けず、ひどく無駄をしたような気持でしたが、でも、いまになって考えると聖書を毎日読んだという事だけで・・・ 太宰治 「風の便り」
・・・新聞の一つ一つの活字が、あんなに穢れて汚く思われたことがなかった。鼠いろのスプリング。細長い帝国大学生。背中を丸くして、ぼんやり頬杖をつく習癖がある。自殺しようと家出をした。そのような記事がいま眼のまえにあらわれ出ても、私は眉ひとつうごかす・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・マッチのペーパーや活字の断片がそのままに眼につくうちはまだ改良の余地はある。 ラスキンをほうり出して、浅草紙をまた膝の上へ置いたまま、うとうとしていた私の耳へ午砲の音が響いて来た。私は飯を食うためにこのような空想を中止しなければなら・・・ 寺田寅彦 「浅草紙」
・・・それまでは何度読んでも結局はただの活字の行列を見物しているのもたいしたちがいはなさそうである。 こわいものの征服 ある年取った科学者が私にこんな話をして聞かせた。私は子供の時から人並以上の臆病者であったらしい。しか・・・ 寺田寅彦 「家庭の人へ」
・・・すべての仕掛けはこの車の同時調節によって有効になるので、試みにわざとちょっとばかりこの調節を狂わせると、もう受信機の印刷する文句はまるきり訳の分からぬ寝言にもならない活字の行列になってしまうのである。 この二十世紀の巧妙な有線電信機の生・・・ 寺田寅彦 「変った話」
・・・互を軽蔑した文字を恬として六号活字に並べ立てたりなどして、故さらに自分らが社会から軽蔑されるような地盤を固めつつ澄まし返っている有様である。日本の文芸家が作家倶楽部というほどの単純な組織すらも構成し得ない卑力な徒である事を思えば、政府の計画・・・ 夏目漱石 「文芸委員は何をするか」
出典:青空文庫