・・・年は二十五、六、この社会の女にしか見られないその浅黒い顔の色の、妙に滑っこく磨き込まれている様子は、丁度多くの人手にかかって丁寧に拭き込まれた桐の手あぶりの光沢に等しく、いつも重そうな瞼の下に、夢を見ているようなその眼色には、照りもせず曇り・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・ 家は明治十四五年ごろまであったのだが、兄きらが道楽者でさんざんにつかって、家なんかは人手に渡してしまったのだ。兄きは四人あった。一番上のは当時の大学で化学を研究していたが死んだ。二番目のはずいぶんふるった道楽ものだった。唐棧の着物なん・・・ 夏目漱石 「僕の昔」
・・・由紀子という人が、二人の子供を前とうしろにかかえて外出したということは、その一家に、留守番をしたり子供を見たりする人手の無いことを語っているのである。 警告を発するならば、先ず運輸省の不手際に対して発せらるべきである。更には、存在の無意・・・ 宮本百合子 「石を投ぐるもの」
・・・ 世論調査には、莫大な費用がかかる。人手もいる。そのために、その費用の支出にたえ調査機関としての人手をもち、同時にその世論調査そのものがそれを行う経営にとってあるニュース・バリューをもって宣伝に役立つ場合、世論調査がとりあげられやすい。・・・ 宮本百合子 「現代史の蝶つがい」
・・・こうして悪い条件に速力を鈍らされながら荷物をひっ張るようにいくらかずつよくなってゆくのが実際なのでしょう。人手が揃って静かに陽なたぼっこが出来るような全体の世の中なら、言ってみれば私も半盲になるような途方もないことはあり得ないわけで、一事が・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・櫛田さんの骨惜しみをしない忠実さ、よい主婦、きちんとした母親らしい仕事ぶりが、全く不如意で物も人手もたりないづくしのクラブの事務に大きいプラスとなった。 三 クラブが出発した半年後に、『婦人民主新聞』が発行・・・ 宮本百合子 「その人の四年間」
・・・さらに、われわれがゆく前には運動すらも、監獄法によって所定されている運動すらも、人手がないというので絶対に許されておらない、しかも外部からの面会、差入れは絶対に禁止されていた。」このことは、おそらく被告たちが六法全書さえ読むことができなかっ・・・ 宮本百合子 「それに偽りがないならば」
・・・源太夫は家康にこの話をして、何を言うにも年若の甚五郎であるから、上の思召しで助命していただければよし、もしかなわぬ事なら、人手にかけず打ち果たしてお詫びをしたいと言った。 家康はこれを聞いて、しばらく考えて言った。「そちが話を聞けば、甚・・・ 森鴎外 「佐橋甚五郎」
・・・苅る柴はわずかでも、汲む潮はいささかでも、人手を耗らすのは損でございます。わたくしがいいように計らってやりましょう」「それもそうか。損になることはわしも嫌いじゃ。どうにでも勝手にしておけ」大夫はこう言って脇へ向いた。 二郎は三の木戸・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
・・・そしてもらった銭は、いつも右から左へ人手に渡さなくてはなりませなんだ。それも現金で物が買って食べられる時は、わたくしの工面のいい時で、たいていは借りたものを返して、またあとを借りたのでございます。それがお牢にはいってからは、仕事をせずに食べ・・・ 森鴎外 「高瀬舟」
出典:青空文庫