・・・と、必死の涙声を挙げ始めました。けれども祖母は眼のまわりにかすかな紫の色を止めたまま、やはり身動きもせずに眠っています。と間もなくもう一人の女中が、慌しく襖を開けたと思うとこれも、色を失った顔を見せて、「御隠居様、――坊ちゃんが――御隠居様・・・ 芥川竜之介 「黒衣聖母」
・・・と言い出してお源は涙声になり「お前さんと同棲になってから三年になるが、その間真実に食うや食わずで今日はと思った日は一日だって有りやしないよ。私だって何も楽を仕様とは思わんけれど、これじゃ余りだと思うわ。お前さんこれじゃ乞食も同然じゃ無い・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
・・・ 京一は、ついに、まかないの棒のことを云い出して、涙声になってしまった。むつかしい顔をして聞いていた父は、「阿呆が、うかうかしよるせに、他人になぶり者にせられるんじゃ。――そんなまかないの棒やかいが、この世界にあるもんかい!」 ・・・ 黒島伝治 「まかないの棒」
・・・それから、ほとんど涙声になって、「バスチーユのね、牢獄を攻撃してね、民衆がね、あちらからもこちらからも立ち上って、それ以来、フランスの、春こうろうの花の宴が永遠に、永遠にだよ、永遠に失われる事になったのだけどね、でも、破壊しなければいけ・・・ 太宰治 「おさん」
・・・君は、君の暗い過去のことで負けめを感ずることは、少しもないんだ。」涙声にさえなっていた。 女は、やはり、その夜、泊らずに帰った。つまらない女であった。私は女の帰った真意を、解することが、できなかった。おのれの淪落の身の上を恥じて、帰って・・・ 太宰治 「デカダン抗議」
・・・さちよのオリガが、涙声でそういうのが、廊下にまで聞えて来る。「素晴らしいね。」助七は、眼を細めて、「初日の評判、あなた新聞で読まなかったんですか? センセーション。大センセーション。天才女優の出現。ああ、笑っちゃいけません。ほんとうなん・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・善ニョムさんは、天秤棒をふりあげて、涙声で怒鳴った。「ど、どちきしょめ!」 断髪の娘は、不意に、天秤棒でお臀を殴られると、もろくそこへ、ヘタってしまった。「いたいッ」 娘は、金切声で叫びながら、断髪頭を振り向けて、善ニョムさ・・・ 徳永直 「麦の芽」
・・・ いろいろ下らん事で心配をかけてすまないとか、ほんとに不孝な子を持った因果とあきらめてくれ、などと涙声で云われると、却って栄蔵の方が、云い訳けをしたい様な気持になった。 十円といくらかの銭ほかない貧乏親父をこんなにたよりにして、・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・ 此処へ来て一日ほど立って、指をはらして二月も順天堂に通った事のあるその女中は、ほんとうに思いやりがあるらしく涙声で云った。 その日一日八度から九度の間を行き来して居た宮部の熱は、夜になっても別にあがりもしなかった。 それで・・・ 宮本百合子 「黒馬車」
・・・ 祖母が涙声で云った時、私は、急に母の居る処へ飛んで帰りたいほどの、どうしていいか分らない、悲しい様な淋しい様な気持になった。私は「何故こんな処へ来たのか」と悔む様な気持になりながら涙をこぼして眠ってしまった。目を覚した時は二時頃だ・・・ 宮本百合子 「農村」
出典:青空文庫