・・・「ロックや、ヒュームやカントが作りあげた認識主観の脈管には現実赤い血潮が通っているのでなくて、単に思惟活動として、理性の稀薄な液汁が流れているのみである」この紅い血潮は意志し、感じ表象する「全人」の立場からのみくみとることができる。「生」は・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・生命の美と、匂いと、液汁とを失っては娘ではない。だが牢記せよ、感覚と肉体と情緒とを超越して高まろうとするあるものを欠いた恋は低卑である。このあるもの、霊の酵母がないと防腐剤がない肉のように、恋は臭いを発するようになる。情緒の過剰は品位を低く・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・日光にきらめき、風にしぶきながら樽からほとばしる液体は、その樽の上に黒ペンキでおどかすようにかきつけられていたPoison――毒ではなかった。液汁は、芳醇とまではゆかないにせよ、とにかく長年の間くさりもしないで発酵していた葡萄のつゆであった・・・ 宮本百合子 「あとがき(『宮本百合子選集』第七巻)」
・・・その意味では、島木の文学の所謂健全性がその髄に飼っていてそこから蟻と蜚あぶらむしのような関係で液汁を吸いとっている時代の虫を、阿部の文学は彼流の知性のつかわしめのようなものとしていると思える。 五 このよう・・・ 宮本百合子 「昭和の十四年間」
出典:青空文庫