・・・踏み堅められない深みに落ちないように仁右衛門は先きに立って瀬踏みをしながら歩いた。大きな荷を背負った二人の姿はまろびがちに少しずつ動いて行った。共同墓地の下を通る時、妻は手を合せてそっちを拝みながら歩いた――わざとらしいほど高い声を挙げて泣・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・はっと驚く暇もなく彼女は何所とも判らない深みへ驀地に陥って行くのだった。彼女は眼を開こうとした。しかしそれは堅く閉じられて盲目のようだった。真暗な闇の間を、颶風のような空気の抵抗を感じながら、彼女は落ち放題に落ちて行った。「地獄に落ちて行く・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・しかしながら行けども行けども他の道に出遇いかねる淋しさや、己れの道のいずれであるべきかを定めあぐむ悲しさが、おいおいと増してきて、軌道の発見せられていない彗星の行方のような己れの行路に慟哭する迷いの深みに落ちていくのである。四・・・ 有島武郎 「二つの道」
・・・泳ぎを知らない人が水の深みへはいったように、省作は今はどうにもこうにも動きがとれない。つまりおとよさんの恋の手に囚われてしまっているのだから、省作が一人であがいた分には、いくらあがいたってなんにもならないのだ。この事件は省作の心だけではどう・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・色情めいた恋愛の陶酔は数経験するであろうが、深みと質とにおいて、より貴重なものを経験せずに逸するなら、賢く生きたともいえまい。深い心境を経験しないですますことは、歓楽を逃がすより、人生において、より惜しいことだからだ。そして夫婦別れごとに金・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
・・・しかし幸福説は道徳的意識の深みと先験性とをどうしても説明し得ない。それは量的に拡がり得るが質的のインテンシチイにおいてはなはだ足らず、心奥の神秘を探究するのにいかにも竿が短かい。幸福主義は必ず結果主義と結びつき、動機を重んずる人格主義と対立・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・彼女たちの好みにまかせておれば、スマートな、物わかりのいい、社会的技能のあるような青年がふえても、深みと、敦みのある理想主義の青年などは減っていきそうに見える。貧困とたたかって民族的・社会的革新のためにたたかうような青年などはお目にとまりそ・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・しかし信仰のあるモダンガール、モダン婦人はその深みとクラシックとの対照のためにかえって非常に特色のある魅力と、ゆかしみが生じるものである。 そのわけは近代的な思想や、感覚に強い感受性を持っているということは、生命力の活々しさと頭の鋭さと・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・お前さんの魂がわたしの魂の中へ、丁度蛆が林檎の中へ喰い込むように喰い込んで、わたしの魂を喰べながら、段々深みへもぐり込むのだわ。こんな風にせられていた日には、いつかはわたしというものが無くなって、黒い糞と林檎の皮とだけが跡に残るに違いないわ・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
・・・ これと場合はちがうが、われわれは子供などに科学上の知識を教えている時にしばしば自分がなんの気もつかずに言っている常套の事がらの奥の深みに隠れたあるものを指摘されて、職業科学者の弱点をきわどく射通される思いがする事はないでもない。 ・・・ 寺田寅彦 「案内者」
出典:青空文庫