・・・ わたしの夢みている地上楽園はそう云う天然の温室ではない。同時に又そう云う学校を兼ねた食糧や衣服の配給所でもない。唯此処に住んでいれば、両親は子供の成人と共に必ず息を引取るのである。それから男女の兄弟はたとい悪人に生まれるにもしろ、莫迦・・・ 芥川竜之介 「侏儒の言葉」
・・・この納屋は窓も硝子になっているから、温室の代りに使っていたんだろう。」 T君の言葉はもっともだった。現にその小さい机の上には蘭科植物を植えるのに使うコルク板の破片も載せてあった。「おや、あの机の脚の下にヴィクトリア月経帯の缶もころが・・・ 芥川竜之介 「悠々荘」
・・・ 宗吉はそう断念めて、洋傘の雫を切って、軽く黒の外套の脇に挟みながら、薄い皮の手袋をスッと手首へ扱いて、割合に透いて見える、なぜか、硝子囲の温室のような気のする、雨気と人の香の、むっと籠った待合の裡へ、コツコツと――やはり泥になった――・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・思うと、挙動は早く褄を軽く急いだが、裾をはらりと、長襦袢の艶なのが、すらすらと横歩きして、半襟も、色白な横顔も、少し俯向けるように、納戸から出て来たのが、ぱっと明るみへ立つと、肩から袖が悄れて見えて、温室のそれとは違って、冷い穴蔵から引出し・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・あとでたいへん不愉快な思いをしたのであるが、それから、ひとつき経って十月のはじめ、私は、そのときの贋百姓の有様を小説に書いて、文章に手を入れていたら、ひょっこり庭へ、ごめん下さいまし、私は、このさきの温室から来ましたが、何か草花の球根でも、・・・ 太宰治 「市井喧争」
・・・他国では科学がとうの昔に政治の肉となり血となって活動しているのに、日本では科学が温室の蘭かなんぞのように珍重され鑑賞されているのでは全く心細い次第であろう。 その国の最高の科学が「主動的に」その全能力をあげて国政の枢機に参与し国防の計画・・・ 寺田寅彦 「自由画稿」
・・・ 日本画部から受けた灰色の合成的印象をもって洋画部へはいって行くと、冬枯れの野から温室の熱帯樹林へはいって行くような気持がするのは私ばかりではあるまい。製作のミリウ〔milieu 環境〕がちがうとは云え、培養された風土民俗が違うとは・・・ 寺田寅彦 「帝展を見ざるの記」
・・・穏やかな日光が広い園にいっぱいになって、花も緑もない地盤はさながら眠ったようである。温室の白塗りがキラキラするようでその前に二三人ふところ手をして窓から中をのぞく人影が見えるばかり、噴水も出ていぬ。睡蓮もまだつめたい泥の底に真夏の雲の影を待・・・ 寺田寅彦 「どんぐり」
・・・ 六階で以前のままなものは花卉盆栽を並べた温室である。自分は三越へ来てこの室を見舞わぬ事はめったにない。いつでも何かしら美しい花が見られる。宅の庭には何もなくなった霜枯れ時分にここへ来ると生まれかわったようにいい心持ちがする。一階から五・・・ 寺田寅彦 「丸善と三越」
・・・ 長い間人間の目の敵にされて虐待されながら頑強な抵抗力で生存を続けて来た猫草相撲取草などを急に温室内の沃土に移してあらゆる有効な肥料を施したらその結果はどうなるであろう。事によると肥料に食傷して衰滅するかもしれない。貧乏のうちは硬骨なの・・・ 寺田寅彦 「路傍の草」
出典:青空文庫