・・・つづいて糞甕に落ちて溺死したいという発作。 私を信じなさい。 私はいまこんな小説を書こうと思っているのである。私というひとりの男がいて、それが或るなんでもない方法によって、おのれの三歳二歳一歳のときの記憶を蘇らす。私はその男の三歳二・・・ 太宰治 「玩具」
・・・この辺で、むかし松本訓導という優しい先生が、教え子を救おうとして、かえって自分が溺死なされた。川幅は、こんなに狭いが、ひどく深く、流れの力も強いという話である。この土地の人は、この川を、人喰い川と呼んで、恐怖している。私は、少し疲れた。花び・・・ 太宰治 「乞食学生」
・・・峻厳、執拗、わが首すじおさえては、ごぼごぼ沈めて水底這わせ、人の子まさに溺死せんとの刹那、すこし御手ゆるめ、そっと浮かせていただいて陽の目うれしく、ほうと深い溜息、せめて、五年ぶりのこの陽を、なお念いりにおがみましょうと、両手合せた、とたん・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
・・・ その頃にもよく浜で溺死者があった。当時の政客で○○○議長もしたことのあるK氏の夫人とその同伴者が波打際に坐り込んで砂浜を這上がる波頭に浴しているうちに大きな浪が来て、その引返す強い流れに引きずり落され急斜面の深みに陥って溺死した。名士・・・ 寺田寅彦 「海水浴」
・・・そしてまた一方は湖になっていて毎年一人ずつ、その中学の生徒が溺死するならわしになっていた。 その湖の岸の北側には屠殺場があって、南側には墓地があった。 学問は静かにしなけれゃいけない。ことの標本ででもあるように、学校は静寂な境に立っ・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・ 溺死人の黒い頭、肩。人間の沢山いる棧橋の方へ、何か魂の引力みたいなもので漂って来まいかといいようなくこわかった。その傍を通り過た漁船、裸の漁師の踏張った片脚、愕きでピリリとしたのを遠目に見た。自分、段々段々その死んで漂って行った若い男・・・ 宮本百合子 「狐の姐さん」
・・・「われわれの規律は、ただあの非無産階級的な、革命を妨害するものどもを束縛するだけで、それはちょうど游泳術が游泳する人にたいして、ただ彼が溺死しないように束縛するだけであるのと同じ」である、と。 最後に、ジダーノフの報告のうちに、警告とし・・・ 宮本百合子 「政治と作家の現実」
・・・けれども日本のいまの肉体文学のように、人間の理性の働きの面を抹殺した性への溺死は、軍国主義やファシズムの人間性抹殺のうらがえしの現象である。日本の敗戦がこういう社会経済事情をもたらしたから、いわゆる性的失業者、半失業者がふえて一種の性的飢餓・・・ 宮本百合子 「文学と生活」
出典:青空文庫