・・・赤坊はいんちこの中で章魚のような頭を襤褸から出して、軒から滴り落ちる雨垂れを見やっていた。彼れの気分にふさわない重苦しさが漲って、運送店の店先に較べては何から何まで便所のように穢かった。彼は黙ったままで唾をはき捨てながら馬の始末をするとすぐ・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・陰もてこの屋をおおい、水車場とこの屋との間を家鶏の一群れゆききし、もし五月雨降りつづくころなど、荷物曳ける駄馬、水車場の軒先に立てば黒き水は蹄のわきを白き藁浮かべて流れ、半ば眠れる馬の鬣よりは雨滴重く滴り、その背よりは湯気立ちのぼり、家鶏は・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・葉末から滴り落ちる露がこの死んだような自然に一脈生動の気を通わせるのである。ひきがえるが這出して来るのもこの大きな単調を破るに十分である。夜の十二時にもならなければなかなか陸風がそよぎはじめない。室内の燈火が庭樹の打水の余瀝に映っているのが・・・ 寺田寅彦 「夕凪と夕風」
・・・竹構の中は殊更に、吹込む雪の上を無惨に飛散るの羽ばかりが、一点二点、真赤な血の滴りさえ認められた。「御前、訳ア御わせん。雪の上に足痕がついて居やす。足痕をつけて行きゃア、篠田の森ア、直ぐと突止めまさあ。去年中から、へーえ、お庭の崖に居た・・・ 永井荷風 「狐」
・・・ その日は照り続いた八月の日盛りの事で、限りもなく晴渡った青空の藍色は滴り落つるが如くに濃く、乾いて汚れた倉の屋根の上に高く広がっていた。横町は真直なようでも不規則に迂曲っていて、片側に続いた倉庫の戸口からは何れも裏手の桟橋から下る堀割・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・床の上を見るとその滴りの痕が鮮やかな紅いの紋を不規則に連ねる。十六世紀の血がにじみ出したと思う。壁の奥の方から唸り声さえ聞える。唸り声がだんだんと近くなるとそれが夜を洩るる凄い歌と変化する。ここは地面の下に通ずる穴倉でその内には人が二人いる・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・その数日は、それまでの数年間のくらしの精髄が若松のかおりをこめた丸い露の玉に凝って、ひろ子の心情に滴りおちるような日々であった。「――チェホフが、おくさんのクニッペルにやった手紙およみになった?」 ひろ子は、封筒の中へ、原稿をしまい・・・ 宮本百合子 「風知草」
・・・久しくそれは聞いたこともなかったものだというよりも、もう二度とそんな気持を覚えそうもない、夕ごころに似た優しい情感で、温まっては滴り落ちる雫くのような音である。初めて私がランプを見たのは、六つの時、雪の降る夜、紫色の縮緬のお高祖頭巾を冠った・・・ 横光利一 「洋灯」
出典:青空文庫