・・・○僕の国に坊主町という淋しい町があってそこに浅井先生という漢学の先生があった。その先生の処へ本読みに行く一人の子供の十余りなるがあったが、いつでもその家を出がけにそこの中庭へ庭一ぱいの大きな裸男を画いて置くのが常であった。それとも知・・・ 正岡子規 「画」
・・・ 蕪村が最も多く時代の影響を受けしは漢学ことに漢詩なりき。かつ漢学は蕪村が少年の時にむしろ隆盛を極め、徂徠一派は勃興したるなり。蕪村は十分に徂徠の説を利用し、もって腐敗せる俳句に新生命を与えたるを見る。蕪村は徂徠ら修辞派の主張する、文は・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・一人、四国の漢学者の浪人アリ。攘夷論の熾なとき故一つ殺してやろう、その前に何というかきいてやれと会った。ニコライ、まだ来たて故日本語下手だが話して居るうちに迚も斬れず。空しくかえる。〔欄外に〕○丁度一八六〇年頃フナロードの始った頃。・・・ 宮本百合子 「一九二五年より一九二七年一月まで」
・・・八十五歳という長寿を保ったこの漢学者の生涯の時期は、日本では、有名な元禄時代の商人興隆時代、文化の華やかな開花の時代、文学の方面では芭蕉、西鶴、近松門左衛門などがさかんな活動をとげた時代と、流れを一つにしている。経済の中心が町人の階級にうつ・・・ 宮本百合子 「三つの「女大学」」
・・・母の実家というのは西村と申し、千葉の佐倉宗五郎の伝説で知られている堀田藩の士で、祖父の代は次男だったので、武術の代りに好きな学問でもやれと言って国学、漢学、蘭学などを専門にやっていたらしい様子です。 経済的には貧乏であったらしい話で、明・・・ 宮本百合子 「わが母をおもう」
・・・しかし君の書いたドイツ文には漢学者の謂う和習がある。ドイツ人ならばそうは云わぬと、私が指してきする。君が服せぬと、私は旅中にも持っている Reclam 版の Goethe などを出して証拠立てる。こんな応対がなかなか面白いので、私も君の来る・・・ 森鴎外 「二人の友」
・・・財産としては、宅地を少し離れた所に田畑を持っていて、年来家で漢学を人の子弟に教えるかたわら、耕作をやめずにいたのである。しかし仲平の父は、三十八のとき江戸へ修行に出て、中一年おいて、四十のとき帰国してから、だんだん飫肥藩で任用せられるように・・・ 森鴎外 「安井夫人」
出典:青空文庫