・・・が、この町が火事だと聞くが早いか、尻を端折る間も惜しいように「お」の字街道へ飛び出したそうです。するとある農家の前に栗毛の馬が一匹繋いである。それを見た半之丞は後で断れば好いとでも思ったのでしょう。いきなりその馬に跨って遮二無二街道を走り出・・・ 芥川竜之介 「温泉だより」
・・・今年は朝顔の培養に失敗した事、上野の養育院の寄附を依頼された事、入梅で書物が大半黴びてしまった事、抱えの車夫が破傷風になった事、都座の西洋手品を見に行った事、蔵前に火事があった事――一々数え立てていたのでは、とても際限がありませんが、中でも・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・山火事で焼けた熊笹の葉が真黒にこげて奇跡の護符のように何所からともなく降って来る播種時が来た。畑の上は急に活気だった。市街地にも種物商や肥料商が入込んで、たった一軒の曖昧屋からは夜ごとに三味線の遠音が響くようになった。 仁右衛門は逞しい・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ぼくは火事じゃないかと思った。 ポチが戸の外で気ちがいのように鳴いている。 部屋の中は、障子も、壁も、床の間も、ちがいだなも、昼間のように明るくなっていた。おばあさまの影法師が大きくそれに映って、怪物か何かのように動いていた。ただお・・・ 有島武郎 「火事とポチ」
・・・遠くから眺めていると、自分の脱けだしてきた家に火事が起って、みるみる燃え上がるのを、暗い山の上から瞰下すような心持があった。今思ってもその心持が忘られない。 詩が内容の上にも形式の上にも長い間の因襲を蝉脱して自由を求め、用語を現代日常の・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・「火事だ、」謹三はほとんど無意識に叫んだ。「火事だ、火事です。」 と見る、偉大なる煙筒のごとき煙の柱が、群湧いた、入道雲の頂へ、海ある空へ真黒にすくと立つと、太陽を横に並木の正面、根を赫と赤く焼いた。「火事――」と道の中へ衝・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・まだその騒ぎの無い内、当地で、本郷のね、春木町の裏長屋を借りて、夥間と自炊をしたことがありましたっけが、その時も前の年火事があったといって、何年にもない、大変な蚊でしたよ。けれども、それは何、少いもの同志だから、萌黄縅の鎧はなくても、夜一夜・・・ 泉鏡花 「女客」
・・・地震の火事で丸焼けとなったが、再興して依然町内の老舗の暖簾といわれおる。 椿岳の米三郎は早くから絵事に志ざした風流人であって、算盤を弾いて身代を肥やす商売人肌ではなかった。初めから長袖を志望して、ドウいうわけだか神主になる意でいたのが兄・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・ 且此朝は四時半から目が覚めていた。火事があったら半鐘の音ぐらい聞えそうなもんだったが、出火の報鐘さえ聞かなかった。怎うして焼けたろう? 怎うしても焼けたとは思われない。 暗号ではないかとも思った。仮名が一字違ってやしないかとも思っ・・・ 内田魯庵 「灰燼十万巻」
・・・このごろは町にろくなことがない。火事があったり、方々でものを盗まれたりする。なんでも、口笛を吹く子供があやしいといううわさだが、おまえは口笛を吹くか? はやく、どこかへいってしまえ。」と、男は子供をにらみつけて、胸のあたりを突いて、あちらへ・・・ 小川未明 「あほう鳥の鳴く日」
出典:青空文庫