・・・ その時、もう、これをして、瞬間の以前、立花が徒に、黒白も分かず焦り悶えた時にあらしめば、たちまち驚いて倒れたであろう、一間ばかり前途の路に、袂を曳いて、厚いふきを踵にかさねた、二人、同一扮装の女の童。 竪矢の字の帯の色の、沈んで紅・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・謙譲の褄はずれは、倨傲の襟より品を備えて、尋常な姿容は調って、焼地に焦りつく影も、水で描いたように涼しくも清爽であった。 わずかに畳の縁ばかりの、日影を選んで辿るのも、人は目をみはって、鯨に乗って人魚が通ると見たであろう。……素足の白い・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・号外が最う刷れてるんだが、海軍省が沈黙しているから出す事が出来んで焦り焦りしている。尤も今日は多分夕方までには発表するだろうと思うが、近所まで用達しに来たから内々密と洩らしに来た。」と、いつも沈着いてる男が、跡から跡からと籠上る嬉しさを・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・といって品物を減らすと店が貧相になるので、そうも行かず、巧く捌けないと焦りが出た。儲も多いが損も勘定にいれねばならず、果物屋も容易な商売ではないと、だんだん分った。 柳吉にそろそろ元気がなくなって来たので、蝶子はもう飽いたのかと心配・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・ 飢えと焦り 青年はあまり恋に飢え、恋の理想が強いとこうした間違いをする。相手をよく評価せずに偶像崇拝に陥る。相手の分不相応な大きな注文を盛りあげて、自分でひとり幻滅する。相手の異性をよく見わけることは何より肝要・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・ 作者は姉の家に手伝っている間にも、「いろいろ焦り、自分の書けないことが、まるで姉たちの所為でもあるかのように毎日当りちらし、ヒステリーのように泣いてばかりいるのだった。」 そのような自分の焦燥の姿をも認めながら、それをひっくるめて・・・ 宮本百合子 「見落されている急所」
出典:青空文庫