・・・おしかは鍋の煮物が出来るとお湯をかけた。「出来まして……どうもすみません。」清三が帰ると園子は二階から走り下りてきて食卓を拡げた。「じいさん、ごぜんじゃでえ。」ばあさんは四畳半へ来て囁いた。「ごぜんなんておかしい。ごはんと云いな・・・ 黒島伝治 「老夫婦」
・・・て、これからどう暮して行くんだ――それだけの事を文句も順序も同じに繰りかえして、進は腕のいゝ旋盤工で、これからどの位出世をするのか分らない大事な一人息子だからと云って、大きな蒲団を運んできたり、暖かい煮物の丼を大事そうに両手にかゝえて持って・・・ 小林多喜二 「母たち」
・・・庖丁をとぐ音、煮物揚物の用意をする音はお三輪の周囲に起って、震災後らしい復興の気分がその料理場に漲り溢れた。 こうなると、何と言っても広瀬さんの天下だ。そこは新七と、広瀬さんと、お力夫婦の寄合世帯で、互いに力を持寄っての食堂で、誰が主人・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・菊代の兄、奥田義雄は、六畳間の縁側にしゃがんで七輪をばたばた煽ぎ煮物をしながら、傍に何やら書籍を置いて読んでいる。斜陽は既に薄れ、暮靄の気配。第一場と同じ日。(洗濯物を取り込み、それを両腕に一ぱいかかえ、上手あら・・・ 太宰治 「春の枯葉」
・・・二畳に阿久がいて、お銚子だの煮物だのを運んだ。さて当日の模様をざっと書いて見ると、酒の良いのを二升、そら豆の塩茄に胡瓜の香物を酒の肴に、干瓢の代りに山葵を入れた海苔巻を出した。菓子折を注文して、それを長屋の軒別に配った。兄弟分が御世話になり・・・ 永井荷風 「深川の散歩」
・・・人間も鶏も食物に対する饑えたものの特別に緊張した気持で一方は一瞬の間でも早く自分等の口に煮物が入る事を望み、一方は、無意識の間に一粒でも多く食べ様とする様子で居る。 といきなり街道からかけ込んで来た、これも又あまり豊かな生活は仕得られな・・・ 宮本百合子 「農村」
・・・棒砂糖少し持てきたりしが、煮物に使わんこと惜しければ、無しと答えぬ。茄子、胡豆など醤油のみにて煮て来ぬ。鰹節など加えぬ味頗旨し。酒は麹味を脱せねどこれも旨し。燗をなすには屎壺の形したる陶器にいれて炉の灰に埋む。夕餉果てて後、寐牀のしろ恭しく・・・ 森鴎外 「みちの記」
出典:青空文庫