・・・ある時はたんねんに集めていた切り抜き版画などの展覧会をやったり、とにかく相当に自分の趣味を満足させるだけの環境はあったらしい。静かな田舎で地味な教師をして、トルストイやドストエフスキーやロマン・ローランを読んだりセザンヌや親鸞の研究をしたり・・・ 寺田寅彦 「亮の追憶」
・・・いつもより一層遠く柔に聞えて来る鐘の声は、鈴木春信の古き版画の色と線とから感じられるような、疲労と倦怠とを思わせるが、これに反して秋も末近く、一宵ごとにその力を増すような西風に、とぎれて聞える鐘の声は屈原が『楚辞』にもたとえたい。 昭和・・・ 永井荷風 「鐘の声」
・・・銅版画なんぞで見るような古風な着物を着ているのでございます。そしてそのじいっと坐っている様子の気味の悪い事ったらございません。死人のような目で空を睨むように人の顔を見ています。おお、気味が悪い。あれは人間ではございませんぜ。旦那様、お怒なす・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・を観劇して、おさえられない感銘からケーテ・コルヴィッツが彼女の代表的な版画集『織匠』を創ったことはよく知られている。 すでに人生の苦闘の意味を知っているイエニーは、赤児の揺籃の傍で、あわれな故郷の織匠たちの運命とその妻や子らの心のうちを・・・ 宮本百合子 「カール・マルクスとその夫人」
・・・イギリスの十九世紀初頭の詩人画家であったウィリアム・ブレークが、独特な水色や紅の彩色で森厳に描いた人格化された天の神秘的な版画も、宇宙に向ってのロマンティックな一種の絵として面白いものだったと思う。 岩波新書で出ている中谷宇吉郎氏の「雪・・・ 宮本百合子 「科学の常識のため」
・・・黒と白だけで全部を表現する版画家の人生に対する感情にさまざまな点から新しい興味を喚起されたし、文化の程度の低い民族あるいは社会層の者ほど原色配合を好み、高級となり洗練された人間ほど微妙な間色の配合、陰翳を味わう能力を増すといわれているありき・・・ 宮本百合子 「芸術が必要とする科学」
・・・ その職人が、引つづいてケーテに銅版画をつくる技術の手ほどきもした。しかし間もなくケーテがその職人から教わることは種切れとなった。父シュミットは十七歳の娘をベルリンまで絵の勉強に旅立たせた。ベルリンには兄息子が勉強に出ていたのであった。・・・ 宮本百合子 「ケーテ・コルヴィッツの画業」
・・・ 有馬さとえ氏その他、それぞれの力量を示す作品を出品しているのではあろうが、面白かったのは版画の長谷川多都子氏の作ぐらいであった。日本画では理解が皮相的な憾みはあるが「煙草売る店」青柳喜美子、「夕」三谷十糸子、「娘たち」森田沙夷などは、・・・ 宮本百合子 「帝展を観ての感想」
・・・南風崎、大村、諫早、海岸に沿うて遽しくくぐる山腹から出ては海を眺めると、黒く濡れた磯の巖、藍がかった灰色に打ちよせる波、舫った舟の檣が幾本も細雨に揺れ乍ら林立して居る景色。版画的で、眼に訴えられることが強い。鹿児島でも、快晴であったし、眩し・・・ 宮本百合子 「長崎の一瞥」
・・・南風崎、大村、諫早と通過する浜の黒々と濡れた磯の巖、灰色を帯びた藍にさわめいている波の襞、舫った舟の檣が幾本となく細雨に揺れながら林立している有様、古い版画のような趣で忘られない印象を受けた風景全体の暗く強い藍、黒、灰色だけの配合色は、若し・・・ 宮本百合子 「長崎の印象」
出典:青空文庫