・・・が、快い温みを漂わせていた。が、物悲しい戦争の空気は、敷瓦に触れる拍車の音にも、卓の上に脱いだ外套の色にも、至る所に窺われるのであった。殊に紅唐紙の聯を貼った、埃臭い白壁の上に、束髪に結った芸者の写真が、ちゃんと鋲で止めてあるのは、滑稽でも・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・ 政ちゃんは、寒い、木枯らしの吹きそうな、晩方の、なんとなく、物悲しい、西空の、夕焼けの色を、目に描いたのです。「どっちから、ペスが、歩いてきたか、知っている?」と正ちゃんは、政ちゃんに、たずねました。「市場の方から、歩いてきた・・・ 小川未明 「ペスをさがしに」
・・・で殺して逃亡し、品川の旅館で逮捕されるまでの陳述は、まるで物悲しい流転の絵巻であった。もののあわれの文学であった。石田と二人で情痴の限りを尽した待合での数日を述べている条りは必要以上に微に入り細をうがち、まるで露出狂かと思われるくらいであっ・・・ 織田作之助 「世相」
・・・』『そうですとも、ほんとにね兄さん、昨日も日が西に傾いて窓から射しこむと机の上に長い影を曳いて、それをぼんやり見ていると何だか哀れぽい物悲しい心持ちがして来ましたが、ふと画の事を考えて、そうだ今だとすぐ画板を引っ掛けて飛び出ました。画の・・・ 国木田独歩 「小春」
・・・ カラクリの爺は眼のくさった元気のない男で、盲目の歌うような物悲しい声で、「本郷駒込吉祥寺八百屋のお七はお小姓の吉三に惚れて……。」と節をつけて歌いながら、カラクリの絵板につけた綱を引張っていたが、辻講釈の方は歯こそ抜けておれ眼付のこわ・・・ 永井荷風 「伝通院」
・・・ 深い夕靄の空に広告塔の飾光がつややかに燦くにつれ、私の胸の中にはその謡の幼い、単調な、其故却って物悲しい音律が、ロシア婦人の帽子の動きに縺れて響いて来た。 其位なら何故、私は、彼女のそばによって、一つの銀貨と引かえに、不用な画帖を・・・ 宮本百合子 「小景」
・・・とさんざん物悲しい事をならべたあげくとうとう行くことに返事されたのでにわかに一所に行く供人をえらんだり何かかにか用意するのに一週間許りは夢のように立っていよいよその日になった。美くしく化粧した光君の姿が車の中に入った時あとにのこる女達は・・・ 宮本百合子 「錦木」
・・・Whole Body thinks. そして思索のために物悲しい影の浮かんでいるその顔は、人の世のあらゆる情熱が彼女の血と肉とによって幾度となく通り過ぎた戦場なのである。 ああ、エレオノラ・デュウゼ。・・・ 和辻哲郎 「エレオノラ・デュウゼ」
出典:青空文庫