・・・ 竈が幅をとった板の間には、障子に映るランプの光が、物静かな薄暗をつくっていた。婆さんはその薄暗の中に、半天の腰を屈めながら、ちょうど今何か白い獣を抱き上げている所だった。「猫かい?」「いえ、犬でございますよ。」 両袖を胸に・・・ 芥川竜之介 「奇怪な再会」
・・・恐ろしいほどにあたりは物静かだった。クララの燃える眼は命の綱のようにフランシスの眼にすがりついた。フランシスの眼は落着いた愛に満ち満ちてクララの眼をかき抱くようにした。クララの心は酔いしれて、フランシスの眼を通してその尊い魂を拝もうとした。・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・ 正直と善良とがあれば、物静かな村の生活でも、虚偽と浮薄が風をなす、物質的文明で飾られた大都会の生活よりは、遙に貴いと確信される如く、悪人がいかに外面に美しく飾っても、畢竟、善い人間とはならないようなものであります。 地上に生れて来・・・ 小川未明 「草木の暗示から」
・・・僕はほとんど自己をわすれてこの雑踏の中をぶらぶらと歩き、やや物静かなる街の一端に出た。『するとすぐ僕の耳に入ったのは琵琶の音であった。そこの店先に一人の琵琶僧が立っていた。歳のころ四十を五ツ六ツも越えたらしく、幅の広い四角な顔の丈の低い・・・ 国木田独歩 「忘れえぬ人々」
・・・禽も啼かざる山間の物静かなるが中なれば、その声谿に応え雲に響きて岩にも侵み入らんばかりなりしが、この音の知らせにそれと心得てなるべし、筒袖の単衣着て藁草履穿きたる農民の婦とおぼしきが、鎌を手にせしまま那処よりか知らず我らが前に現れ出でければ・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・ 此処は当時明や朝鮮や南海との公然または秘密の交通貿易の要衝で大富有の地であった泉州堺の、町外れというのでは無いが物静かなところである。 夕方から零ち出した雪が暖地には稀らしくしんしんと降って、もう宵の口では無い今もまだ断れ際にはな・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・先日私は、素直な書生にさそわれまして井の頭公園の梅見としゃれたのでありますが、紅梅、白梅、ほつほつと咲きほころびつつましく艶を競い、まことに物静かな、仙境とはかくの如きかと、あなた、こなた、夢に夢みるような思いにてさまよい歩き、ほとんど俗世・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
・・・らわれる迄はそれでも、奥さまの交際は、ご主人の御親戚とか奥さまの身内とかいうお方たちに限られ、ご主人が南洋の島においでになった後でも、生活のほうは、奥さまのお里から充分の仕送りもあって、わりに気楽で、物静かな、謂わばお上品なくらしでございま・・・ 太宰治 「饗応夫人」
・・・ ここを訪うみちみち私は、深田氏を散歩に誘い出して、一緒にお酒をたくさん呑もう悪い望や、そのほかにも二つ三つ、メフィストのささやきを準備して来た筈であったのに、このような物静かな生活に接しては、われの暴い息づかいさえはばかられ、一ひらの・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・これはこの会場にふさわしくないほど、物静かな、しんみりとした気持のいい絵であると思った。 この絵には別にこれと云って手っ取り早く感心しなければならないような、一口ですぐ云ってしまわれるような趣向やタッチが、少なくも私には目に立たない。そ・・・ 寺田寅彦 「ある日の経験」
出典:青空文庫