・・・故野口英世博士が狂人の脳髄の中からスピロヘータを検出したときにも、二百個のプレパラートを順々に見て行って百九十何番目かで始めてその存在を認め、それから見直してみると、前に素通りした幾つもの標本にもちゃんと同じもののあるのが見つかった。 ・・・ 寺田寅彦 「錯覚数題」
・・・善ニョムさんは、まったく狂人のように怒り出して、畑の隅へ駈けて行くと天秤棒をとりあげて犬の方へ駈けていった「ち、ちきしょうめ!」 しかし、犬は素早く畑を飛び出すと、畑のくろをめぐって、下の畑へ飛び下りた。そしてこれも顔を赤くホテらし・・・ 徳永直 「麦の芽」
・・・と、船会社の社長が言った半馬鹿、半狂人の船長と、木乃伊のような労働者と、多くの腐った屍とがあった。――一九二六、二、七―― 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
・・・』僕はその語をきれぎれに聴きながらそこをはなれたんだそれからもうかけてかけて林を通るときは木をみんな狂人のようにゆすぶらせ丘を通るときは草も花もめっちゃめちゃにたたきつけたんだ、そしてその夕方までに上海から八十里も南西の方の山の中に行ったん・・・ 宮沢賢治 「風野又三郎」
・・・ 勇吉夫婦は酔っ払った上互に狂人のように悪態をつき合ながら、炉の粗朶火をふり廻して、亭主がここへ火をつけると、女房もそっちに火をつける。火をつけながら、泣きながら、おしまは、「こげえな家が何でえ! 畜生! 夜もねねえでかせいだんなあ何の・・・ 宮本百合子 「田舎風なヒューモレスク」
・・・然し或る時は、狂人のように潔癖だ。そして変な物を並べる商人を何かの形で思い知らせる。 のどかな漫歩者の上にも、午後の日は段々傾いて来る。 明るく西日のさす横通りで、壁に影を印しながら赤や碧の風船玉を売っていた小さい屋台も見えなく・・・ 宮本百合子 「小景」
・・・後に思えば気の毒であるが、この時は私の心中に、若し狂人ではあるまいかと云う疑さえ萌していた。 それから私は取敢ずこんな返事をした。君は私を買い被っている。私はそんなにえらくはない。しかし私の事は姑く措くとして、君は果して東京で師事すべき・・・ 森鴎外 「二人の友」
・・・騎兵と歩兵と砲兵と、服色燦爛たる数十万の狂人の大軍が林の中から、三色の雲となって層々と進軍した。砲車の轍の連続は響を立てた河原のようであった。朝日に輝いた剣銃の波頭は空中に虹を撒いた。栗毛の馬の平原は狂人を載せてうねりながら、黒い地平線を造・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・人間が十人集れば、一人ぐらいは、狂人が混じっていると思っても、宜しいでしょう。」「そうすると、今の日本には、少しおかしいのが、五百万人ぐらいはいると思っても、さしつかえありませんね、あはははははは――」 笑う声が薄気味わるく夜の灯火・・・ 横光利一 「微笑」
・・・と叫ぶ者は狂人をもって目せらる。姑息なる思想! 安逸に耽る教育者! 見よ汝が造れる人の世は執着を虚栄の皮に包んだる偽善の塊に過ぎぬじゃないか。要するに現代の道徳は本義として「物質的超越と霊的執着とをもって自ら処決せよ」と求む。言い変うれば「・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫