・・・ 新聞記事などに拠って見ると、夏目さんは自分の気に食わぬ人には玄関払いをしたりまた会っても用件がすめば「もう用がすんだから帰り給え」ぐらいにいうような人らしく出ているが、私は決してそうは思わない。私が夏目さんに会ったのは、『猫』が出てか・・・ 内田魯庵 「温情の裕かな夏目さん」
・・・ところが、党員が出て来ていうのには、「野坂氏は多忙で誰とも会いません。用件は私が伺いましょう」 用件はなかった。すごすご帰る道、仙台に板垣退助の娘がいることを耳にした。板垣退助こそ民主主義である。彼は仙台へ行った。宿につき女中にきく・・・ 織田作之助 「民主主義」
・・・ さて一切の用件を話して聞せた。 それを聞いたチルナウエルには、なぜそんな事をさせられるのだかは、分からないが、どんな事をすれば好いと云うことだけは、すっかり飲み込めた。チルナウエルも気の利いた男でポルジイも物をはっきり言う男だから・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・三吉は焼酎をのみながら、事務的に用件をいった。いいながら自分に腹がたってくる。どうしてもこの男にバカにされてしまう。――用件というのは、東京の「前衛」社から高島貞喜がくるという通知を受けとったこと、その演説会と座談会をやるため、印刷工組合と・・・ 徳永直 「白い道」
・・・それも用件で来るのは好いのだけれども、地方の文学青年なんかで、ぼんやり訪ねて来られるのは最も困る。僕は一体話題のすくない人間であり、自己の狭い主観的興味に属すること以外、一切、話すことの出来ない質の人間だから、先方で話題を持ちかけて来ない以・・・ 萩原朔太郎 「僕の孤独癖について」
・・・ 私が大きくなってからの父は、随分あちこちに出張の旅行をしたが、筆まめとはいえなくて、母あての手紙も大抵は箇条がきのように用件をかいたのが多くなった。それでもそのあとさきには、よく眠れますかとか、よく眠るようにとか、とかく健康の勝れなか・・・ 宮本百合子 「父の手紙」
・・・ そこから、次の用件で芝の方へ行ったら、増上寺前のプールの外の日除けの下に少年少女の密集があった。超満員のプールがあいて自分たちの番の来るのを待っている子供たちである。 市民の生活に列をつくるならわしが出来たことは、何といっても日本・・・ 宮本百合子 「列のこころ」
・・・石に鳴る靴音の加減で、梶は来る人の用件のおよその判定をつける癖があった。石は意志を現す、とそんな冗談をいうほどまでに、彼は、長年の生活のうちこの石からさまざまな音響の種類を教えられたが、これはまことに恐るべき石畳の神秘な能力だと思うようにな・・・ 横光利一 「微笑」
出典:青空文庫