・・・途端に罪の無い笑は二人の面に溢れて、そして娘の歩は少し疾くなり、源三の歩は大に遅くなった。で、やがて娘は路――路といっても人の足の踏む分だけを残して両方からは小草が埋めている糸筋ほどの路へ出て、その狭い路を源三と一緒に仲好く肩を駢べて去った・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・さてはいよいよこれなりけりと心勇みて、疾く嚮導すべき人を得んと先ず観音堂を索むるに、見渡す限りそれかと覚しきものも見えねばいささか心惑う折から、寒月子は岨道を遥かに上り行きて、ここに堂あり堂ありと叫ぶ。嬉しやと己も走り上りて其処に至れば、眼・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・ 少し気の毒なような感じがせぬではなかったが、これが少年でなくて大人であったなら疾くに自分は言出すはずのことだったから、仕方がないと自分に決めて、 兄さん、済まないけれどもネ、お前の坐っているところを、右へでも左へでも宜いから、一間・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・おげんが国からお新を連れてあの家を見に行った頃は、旦那はもう疾くにおげんの側に居なかった。家も捨て、妻も捨て、子も捨て、不義理のあるたけを後に残して行く時の旦那の道連には若い芸者が一人あったとも聞いたが、その音信不通の旦那の在所が何年か後に・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・早起の先生は時間を待ち切れないで疾くに家を出た。裏庭には奥さんだけ居て、主婦らしく畠を見廻っていた。「でも、高瀬さん、田舎ですね。後の方にある桑畠まで皆なこの屋敷に附いてるんですよ――」 と奥さんは言って聞かせた。 草の芽が見え・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・あの満天星を御覧、と言われて見ると旧い霜葉はもう疾くに落尽して了ったが、茶色を帯びた細く若い枝の一つ一つには既に新生の芽が見られて、そのみずみずしい光沢のある若枝にも、勢いこんで出て来たような新芽にも、冬の焔が流れて来て居た。満天星ばかりで・・・ 島崎藤村 「三人の訪問者」
・・・お三輪が小竹の隠居と言われる時分には、旦那は疾くにこの世にいない人で、店も守る一方であったが、それでも商法はかなり手広くやり、先代が始めた上海の商人との取引は新七の代までずっと続いていた。 お三輪は濃い都会の空気の中に、事もなく暮してい・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・ロレンツのごとき優れた老大家は疾くからこの問題に手を附けて、色々な矛盾の痛みを局部的の手術で治療しようとして骨折っている間に、この若い無名の学者はスイスの特許局の一隅にかくれて、もっともっと根本的な大手術を考えていた。病の根は電磁気や光より・・・ 寺田寅彦 「アインシュタイン」
・・・ 疾くに故人となった甥の亮が手製の原始的な幻燈を「発明」したのは明らかにこれらの刺激の結果であったと思われる。その「器械」は実に原始的なものであった。本箱の上に釘を二本立ててその間にわずかに三寸四角ぐらいの紙を張ったのがスクリーンである・・・ 寺田寅彦 「映画時代」
・・・あるものは緩く、あるものは疾く遶る。またある時は輪さえ描く隙なきに乱れてしまう。「荼毘だ、荼毘だ」と丸顔の男は急に焼場の光景を思い出す。「蚊の世界も楽じゃなかろ」と女は人間を蚊に比較する。元へ戻りかけた話しも蚊遣火と共に吹き散らされてしもう・・・ 夏目漱石 「一夜」
出典:青空文庫