・・・ 誓 月凍てたり。大路の人の跫音冴えし、それも時過ぎぬ。坂下に犬の吠ゆるもやみたり。一しきり、一しきり、檐に、棟に、背戸の方に、颯と来て、さらさらさらさらと鳴る風の音。この凩! 病む人の身をいかんする。ミリヤアドは衣深く引被・・・ 泉鏡花 「誓之巻」
・・・「幽霊も大袈裟だがよ、悪く、蜻蛉に祟られると、瘧を病むというから可恐えです。縄をかけたら、また祟って出やしねえかな。」 と不精髯の布子が、ぶつぶついった。「そういう口で、何で包むもの持って来ねえ。糸塚さ、女様、素で括ったお祟りだ・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・ 胸を病む少女のように、色が青白くまつ毛が長く、ほっそりと頬が痩せている。 いわば紅顔可憐だが、しかしやがて眼を覚まして、きっとあたりを見廻した眼は、青み勝ちに底光って、豹のように鋭かった。 その眼つきからつけたわけではなかろう・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・ 妻の教育に、まる三年を費やした。教育、成ったころより、彼は死のうと思いはじめた。 病む妻や とどこおる雲 鬼すすき。 赤え赤え煙こあ、もくらもくらと蛇体みたいに天さのぼっての、ふくれた、ゆららと流れた、のっそらと大・・・ 太宰治 「葉」
・・・三日目の朝、われと隠士の眠覚めて、病む人の顔色の、今朝如何あらんと臥所を窺えば――在らず。剣の先にて古壁に刻み残せる句には罪はわれを追い、われは罪を追うとある」「逃れしか」と父は聞き、「いずこへ」と妹はきく。「いずこと知らば尋ぬる便・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・あなたがたは、病む人々が生命のためにたたかう事業をたすけて、けなげに努力していらっしゃる。そのような看護婦という職業をもつ一人の女性の人生として、きょうの生活をどう感じて働いておいででしょうか、と。 生きるために病とたたかう人たちをたす・・・ 宮本百合子 「生きるための協力者」
・・・の中でベルクナアが妻を演じて、苦しいその心のありさまを病む良人のベッドのよこでの何ともいえないとんぼがえりで表現した、あの表現と同様、どうも女優そのものの体からひとりでに出たものとは思われない。寧ろ監督の腕と思う。勿論、そのなかにも女優が自・・・ 宮本百合子 「映画女優の知性」
・・・が、病むイエニーの部屋へ初めて行った朝の美しい光景を、エレナーは感動をもって記録している。「二人は一緒に若返りました――彼女は恋する乙女に、彼は恋する若者に、一緒に人生に歩み入るところの――そして互いに生涯の別れを告げているところの――・・・ 宮本百合子 「カール・マルクスとその夫人」
・・・ 尚それよりも幸福なのは偉大な力をもって人に迫る「死」そのものを知らないことである。 病む人が己に死の影が刻々と迫りつつあると知った時はどんな気持だろう。実に「生」を求める激しい欲望に満ち満ちて居る。 過去の追憶は矢の様に心をか・・・ 宮本百合子 「悲しめる心」
・・・ 他人の中で病むほどつらい事はございませんものねえ。 此処へ来て一日ほど立って、指をはらして二月も順天堂に通った事のあるその女中は、ほんとうに思いやりがあるらしく涙声で云った。 その日一日八度から九度の間を行き来して居た宮部・・・ 宮本百合子 「黒馬車」
出典:青空文庫