・・・医師の言われるには、まだ足に浮腫が来ていないようだから大丈夫だが、若し浮腫がくればもう永くは持たないと言うお話で、一度よく脚を見てあげたいのだが、病人が気にするだろうと思ってそれが出来にくい、然しいずれは浮腫だすだろうと言われました。これを・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・遊覧客や病人の眼に触れ過ぎて甘ったるいポートワインのようになってしまった海ではない。酢っぱくって渋くって泡の立つ葡萄酒のような、コクの強い、野蕃な海なんだ。波のしぶきが降って来る。腹を刔るような海藻の匂いがする。そのプツプツした空気、野獣の・・・ 梶井基次郎 「海 断片」
・・・「どうも病人らしい。ねえ大島さん。」と巡査は医者のほうを向いた、大島医師は巡査が煙草を吸っているのを見て、自分も煙草を出して巡査から火を借りながら、「無論病人です。」と言って轢死者のほうをちょっと見た。すると人夫が「きのうそこの・・・ 国木田独歩 「窮死」
・・・波止場近くの草ッ原の雑草は、一カ月見ないうちに、病人の顎ひげのように長く伸び乱れているのである。 やがて歩けるようになると私は杖をついて海岸伝いの道をあるいてみる。歩ける嬉しさ、坐れる嬉しさ、自然に接しられる嬉しさは、そのいずれも叶わぬ・・・ 黒島伝治 「海賊と遍路」
・・・チョッ不景気な、病人くさいよ、眼がさめたら飛び起きるがいいわさ。ヨウ、起きておしまいてえば。「厭あだあ、母ちゃん、お眼覚が無いじゃあ坊は厭あだあ。アハハハハ。「ツ、いい虫だっちゃあない、呆れっちまうよ。さあさあお起ッたらお起きナ、起・・・ 幸田露伴 「貧乏」
・・・ わたくしが死刑を期待して監獄にいるのは、瀕死の病人が、施療院にいるのと同じである。病苦がはなはだしくないだけ、さらに楽かも知れぬ。 これはわたくしの性の獰猛なのによるか。痴愚なるによるか。自分にはわからぬが、しかし、今のわたくしは・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・其時自分は目を細くして幾度となく若葉の臭を嗅いで、寂しいとも心細いとも名のつけようのない――まあ病人のように弱い気分になった。半生の間の歓しいや哀しいが胸の中に浮んで来た。あの長い漂泊の苦痛を考えると、よく自分のようなものが斯うして今日まで・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・これは、ほんものの病人である。おどろくほど、美しい顔をしていた。吝嗇である。長兄が、ひとにだまされて、モンテエニュの使ったラケットと称する、へんてつもない古ぼけたラケットを五十円に値切って買って来て、得々としていたときなど、次男は、陰でひと・・・ 太宰治 「愛と美について」
・・・ 歌人に病人が多いのかあるいは病人に歌をよむ人が多いのかどうか、事実は分らないが、私のこれまで読んだ色々の歌人の歌によって想像される作者の健康は平均すると中以下になりそうな気がする。しかし宇都野さんの歌から見た作者は、どうしても健康な身・・・ 寺田寅彦 「宇都野さんの歌」
・・・ そのころ病人は少し落ち著いたところで、多勢の人たちによって山から降ろされて、自分の家の茶室に臥ていた。兄はしばらくぶりで、汽車の窓から顔を出している道太を見て、さも懐かしそうな目を見張った。 道太はその日も、しばらくそばについてい・・・ 徳田秋声 「挿話」
出典:青空文庫