・・・例の通りに白壁のように塗り立てた夫人とクッつき合って、傍若無人に大きな口を開いてノベツに笑っていたが、その間夫人は沼南の肩を叩いたり膝を揺ったりして不行儀を極めているので、衆人の視線は自然と沼南夫妻に集中して高座よりは沼南夫妻のイチャツキの・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・といって、箱の中から一枚のレコードを抜いて、盤にかけながら、「私は、この唄をきくと悲しくなるの、東京に生まれて、田舎の景色を知らないけれど、白壁のお倉が見えて、青い梅の実のなっている林に、しめっぽい五月の風が吹く、景色を見るような気がす・・・ 小川未明 「谷にうたう女」
・・・へは行かず、すぐ坂を降りましたが、その降りて行く道は、灯明の灯が道から見える寺があったり、そしてその寺の白壁があったり、曲り角の間から生国魂神社の北門が見えたり、入口に地蔵を祠っている路地があったり、金灯籠を売る店があったり、稲荷を祠る時の・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・福山すなわち松前と往時は云いし城下に暫時碇泊しけるに、北海道には珍らしくもさすがは旧城下だけありて白壁づくりの家など眸に入る。此地には長寿の人他処に比べて多く、女も此地生れなるは品よくして色麗わしく、心ざま言葉つきも優しき方なるが多きよし、・・・ 幸田露伴 「突貫紀行」
・・・ と三吉が振って見せる帽子も見えなくなる頃は、小山の家の奥座敷の板屋根も、今の養子の苦心に成った土蔵の白壁も、瞬く間におげんの眼から消えた。汽車は黒い煙をところどころに残し、旧い駅路の破壊し尽くされた跡のような鉄道の線路に添うて、その町・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・樹木の間から白壁だの教室の窓などが見えるところだ。高瀬は谷を廻って、いくらか勾配のある耕地のところで先生と一緒に成った。「ここへは燕麦を作って見ました。私共の畠は学校の小使が作ってます」 先生はその石の多い耕地を指して見せた。 ・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・並木のつきたところに白壁が鈍く光っている。質屋の土蔵である。三十歳を越したばかりの小柄で怜悧な女主人が経営しているのだ。このひとは僕と路で行き逢っても、僕の顔を見ぬふりをする。挨拶を受けた相手の名誉を顧慮しているのである。土蔵の裏手、翼の骨・・・ 太宰治 「彼は昔の彼ならず」
・・・夕焼あかき雁の腹雲、両手、着物のやつくちに不精者らしくつっこみ、おのおの固き乳房をそっとおさえて、土蔵の白壁によりかかって立ちならんで居る一群の、それも十四、五、六の娘たち、たがいに目まぜ、こっくり首肯き、くすぐったげに首筋ちぢめて、くつく・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
・・・偏光を生じるニコルのプリズムを通して白壁か白雲の面を見ると、妙なぼんやりした一抹の斑点が見える。すすけた黄褐色の千切り形あるいは分銅形をしたものの、両端にぼんやり青みがかった雲のようなものが見える。ニコルを回転すると、それにつれて、この斑点・・・ 寺田寅彦 「錯覚数題」
・・・御堀端にかかった時に、桃色の曙光に染められた千代田城の櫓の白壁を見てもそんな気がした。 日比谷で下りて公園の入り口を見やった時に、これはいけないと思った。ねくたれた寝衣を着流したような人の行列がぞろぞろあの狭い入口を流れ込んでいた。草花・・・ 寺田寅彦 「雑記(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
出典:青空文庫