・・・、伏せをしたように頭を低めて、馬の背中にぴたりと体をつけたまま、手綱をしゃくっている騎手の服の不気味な黒と馬の胴につけた数字の1がぱっと観衆の眼にはいり、1か7か9か6かと眼を凝らした途端、はやゴール直前で白い息を吐いている先頭の馬に並び、・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・死の直前、あッしまった、こんな筈ではなかったと、われながら不思議であったろう。わけがわからなかったであろう。観念の眼を閉じて、安らかに大往生を遂げたとは思えない。思いたくない。あの面魂だ。剥いでも剥いでも、たやすく芯を見せない玉葱のような強・・・ 織田作之助 「武田麟太郎追悼」
・・・飛びこむ直前までそのうえで遊びたわむれていたあの岩がなくなった。こんな筈はない。どちらかが夢だ。がったん、電車は、ひとつ大きくゆれて見知らぬ部落の林へはいった。微笑ましきことには、私はその日、健康でさえあったのだ。かすかに空腹を感じたのであ・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・あれは昨年十月ぼくの負傷直前の制作です。いま、ぼくはあれに対して、全然気恥しい気持、見るのもいやな気持に駆られています。太宰さんの葉書なりと一枚欲しく思っています。ぼくはいま、ある女の子の家に毎晩のように遊びに行っては、無駄話をして一時頃帰・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・正確に書きたいと思うから、なるべくは眠りに落ちる直前までの事を残さず書いてみたいし、実に、めんどうな事になるのである。それに、日記というものは、あらかじめ人に見られる日のことを考慮に入れて書くべきものか、神と自分と二人きりの世界で書くべきも・・・ 太宰治 「作家の像」
・・・七月の二十八日朝に甲府を出発して、大月附近で警戒警報、午後二時半頃上野駅に着き、すぐ長い列の中にはいって、八時間待ち、午後十時十分発の奥羽線まわり青森行きに乗ろうとしたが、折あしく改札直前に警報が出て構内は一瞬のうちに真暗になり、もう列も順・・・ 太宰治 「十五年間」
・・・それから五年経って、僕が中学校を卒業する直前に、父は狂い死しました。母が死んでから、もう、元気がないようでしたが、それから、すこし、まあ遊びはじめたのでしょうね、店は可成大きかったのですが、衰運の一途でした。あのときは全国的に呉服屋が、いけ・・・ 太宰治 「新樹の言葉」
・・・女の局員たちの噂では、なんでも、宮城県のほうで戦災に遭って、無条件降伏直前に、この部落へひょっこりやって来た女で、あの旅館のおかみさんの遠い血筋のものだとか、そうして身持ちがよろしくないようで、まだ子供のくせに、なかなかの凄腕だとかいう事で・・・ 太宰治 「トカトントン」
・・・そのような愚直の、謂わば盲進の状態に在るとき、私は、神の特別のみこころに依り、数々の予告を賜って、けれども、かなしいかな、その予告の真意を解くことができず、どろぼう襲来の直前まで、つい、うっかり、警戒を怠っていたということに就いては、寛大の・・・ 太宰治 「春の盗賊」
・・・それから、飲食店閉鎖の命令の出る直前に、もういちど、上役のお供で「さくら」に行き、スズメに逢った。「閉鎖になっても、この家へおいでになって私を呼んで下さったら、いつでも逢えますわよ。」 鶴はそれを思い出し、午後七時、日本橋の「さくら・・・ 太宰治 「犯人」
出典:青空文庫