・・・ 女房は真っ直に村役場に這入って行ってこう云った。「あの、どうぞわたくしを縛って下さいまし、わたくしは決闘を致しまして、人を一人殺しました。」 それを聞いた役場の書記二人はこれまで話に聞いた事もない出来事なので、女房の顔を見て微笑ん・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・ずっと家並みは続いていたが、停電のせいだろう、門燈は消えて、洩れて来る一筋の灯りもなく、真っ暗闇だった。「この先に交番があった筈だが……」 と、小沢がふと呟くと、娘はびっくりしたように、「交番へ行くのはいやです。お願いです」・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・明けがた近くしばしまどろみしが目さめし時はかれの顔真っ蒼なりき。憂えも怒りも心の戦いもやみて、暴風一過、かれが胸には一片の秋雲凝って動かず。床にありていずこともなく凝視めし眼よりは冷ややかなる涙、両の頬をつたいて落ちぬ。『ああ恋しき治子よ』・・・ 国木田独歩 「わかれ」
・・・それぎりで客へは何の挨拶もしない、その後ろ姿を見送りもしなかった。真っ黒な猫が厨房の方から来て、そッと主人の高い膝の上にはい上がって丸くなった。主人はこれを知っているのかいないのか、じっと目をふさいでいる。しばらくすると、右の手が煙草箱の方・・・ 国木田独歩 「忘れえぬ人々」
・・・しかし、そのうちにふと顔を上げて見ますと、自分の頭の真上には、鋭く尖った大きな刀が、一本の馬の尾の毛筋で真っ逆さに釣り下げられていたので、びっくりして青くなりました。これはディオニシアスが、おれの境遇は丁度この通りだということを見せてやろう・・・ 鈴木三重吉 「デイモンとピシアス」
・・・ 女房は真っ直に村役場に這入って行ってこう云った。「あの、どうぞわたくしを縛って下さいまし、わたくしは決闘を致しまして、人を一人殺しました。」 第五 決闘の次第は、前回に於いて述べ尽しました。けれども物語は、それで・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・敗れてしまった時である。真っ暗いところに、こっそり坐って、誰にも顔を見られない。少し、ホッとするのである。そんな時だから、どんな映画でも、骨身にしみる。 日本の映画は、そんな敗者の心を目標にして作られているのではないかとさえ思われる。野・・・ 太宰治 「弱者の糧」
あさ、眼をさますときの気持は、面白い。かくれんぼのとき、押入れの真っ暗い中に、じっと、しゃがんで隠れていて、突然、でこちゃんに、がらっと襖をあけられ、日の光がどっと来て、でこちゃんに、「見つけた!」と大声で言われて、まぶしさ、それから・・・ 太宰治 「女生徒」
・・・と云って、奥さんは雪が火を活けて、大きい枠火鉢の中の、真っ白い灰を綺麗に、盛り上げたようにして置いて、起って行くのを、やはり不安な顔をして、見送っていた。邸では瓦斯が勝手にまで使ってあるのに、奥さんは逆上せると云って、炭火に当っているのであ・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・ 二人の子供は真っ蒼になった。安寿は三郎が前に進み出て言った。「あれはうそでございます。弟が一人で逃げたって、まあ、どこまで往かれましょう。あまり親に逢いたいので、あんなことを申しました。こないだも弟と一しょに、鳥になって飛んで往こうと・・・ 森鴎外 「山椒大夫」
出典:青空文庫